W28733(T5555)

寸延短刀 銘 相州住綱広 附)黒漆鮫研出鞘小さ刀拵

古刀 室町時代末期 (天正・文禄頃/1573~95) 相模
刃長 31.1cm 反り 0.2cm 元幅 29.1mm 元厚 5.7mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒漆鮫研出鞘小さ刀拵

 

剣形:平造、三ツ棟、控えめの重ね。寸のびて元先の身幅広く浅めの反りがつき、ふくら張り、茎にも反りがあり、総体弓形となる威風堂々たる体躯をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:地鉄やや青黒く沈み、板目に杢目交えて肌目たち、地沸厚くついて地景が沸く強靭な地鉄。
刃文:刃区長く焼きだし、湾れに大互の目、複式互の目、丁子風の刃を交えて大乱れ。処々跳び焼き・棟焼きを伴い所謂『皆焼(ひたつら)』となる。上部更に沸強く、沸崩れ・湯走りさかんに放射して変化に富みり複雑に乱れる。
帽子:大乱れ皆焼となり、先火炎風に掃きかけて棟に深く焼き下げる。
茎:生ぶ、舟底形で茎にも僅かに反りがある。目釘孔一個。切鑢かかり、浅い栗尻に結ぶ。棟小肉つき、ここには勝手下がりの鑢目。目釘孔下に、やや詰まりごころの『相州住綱廣』の五字銘がある。

 室町時代の相州鎌倉鍛冶のなかで、沸と地景を特徴とする相州伝を継承し、南北朝時代の広光・秋広に肉迫する佳作を残しているのが綱広である。山村家文書によると初代綱広は広正の子孫であり、北条氏綱の招聘により鎌倉から小田原に移住し、「綱」の一字を賜って「綱広」と改銘したと伝えられている。通説では初代を天文頃とされ、以降は天正頃の二代、さらに文禄・慶長頃の三代と続き、以降新刀期には寛永頃の四代『山村勘右衛門』さらには万治・寛文頃の伊勢大掾綱広と続く。一説には五代・伊勢大掾綱広は中曽祢虎徹の師匠ともいわれている。以降その名跡は大正時代の十六代まで及んだ。
 表題の作は天正・文禄頃の三代目綱広の作。名を『山村宗右衛門尉』と称し、鎌倉扇ヶ谷に住した。天正18年(1590)豊臣秀吉が天下統一の仕上げの小田原征伐以降はその活動を制約されることとなり、陸奥国津軽藩主、津軽為信の招聘で慶長九年に弘前に赴き、同十一年まで駐槌して三百余刀を鍛えている。遺作には「津軽主為信相州綱広 慶長十乙巳八月吉日 三百腰之内」「津軽主為信相州綱広呼下作之 慶長十乙巳八月吉日」などが現存している。寛永十五年二月二十七日歿、行年九十一。
 この作品は宗右衛門尉綱広の秀逸な技倆に感服する一口である。地刃ともに頗る健全で、実戦に主眼を於いた添差しの迫力ある出来映えを明示している。寸がのびて元先の身幅広く、重ねを控えた剣形は、所謂素早い抜刀裁断に適した造り込み。硬軟の鉄を鍛えた杢目交じりの大板目の地鉄は鮮明な地景による渦巻き肌が表れて迫力があり、刃文は裁断に適した匂い口やや沈んだ湾れに互の目交じり、打ち合いに備えての棟焼きがあるなどの『皆焼』を形成し、強靱な焼刃の構成は実利を重視したもので凄味がある。茎の刃方が張る所詮、舟底風となる形状は武州下原派、駿河の島田派、伊勢の千子派に影響を与えた。
附)黒漆鮫研出鞘小さ刀拵 (/ 刀装具拡大写真)
  • 縁頭:三茄子図、四分一磨地、高彫、金・赤銅色絵、無銘
  • 目貫:三茄子図、赤銅容彫、金色絵
  • 鐔:二つ茄子図、山銅地、石目地、四分一覆輪、高彫、赤銅、金色絵、無銘
  • 小柄:竹幹図、山銅地、磨地、鋤彫、無銘
  • 柄:白鮫着、納戸色常組糸諸撮菱巻
銀着せ一重はばき、白鞘入り。
参考文献:本閒順治・佐藤貫一『日本刀大鑑 古刀篇一』大塚巧藝社 昭和四十三年