T5459(W7007)

Wakizashi signed Inoue Izuminokami KUNISADA Chrysanthemum crest The second month, 12th year of Kanbun

Shinto Early Edo period (12th year of Kanbun/1672) Settsu
Length of cutting edge51.2cm Curvature1.0cm Width of base31.1mm Thickness of base6.6mm Width of Yokote24.0mm 

NBTHK(Tokubetsu Hozon)

 Reference only

本作は寛文十二年二月日を有する、大阪新刀の名手助広と並び称される二代国貞(真改)の脇指。

井上真改は俗名を井上八郎兵衛。初代国貞の次男として寛永七年に生を受けた。真改の作風を知るうえでは江戸初期から前期にかけての慶長から寛永そして延宝にかけての刀剣の志向や江戸幕府の政策(注)や世相の変化に深く関係していると考えられる。

初代国貞は国広に学び、国広の没後には高弟である越後守国儔に師事して大阪に移り、河内守国助とともに大阪新刀の創始者として名高い。初代の作柄はその世相を反映し、慶長新刀の典型を示しており反りの浅いかつ身幅の広い姿に沸本位の頭の揃った小の互の目を焼いているものの、その晩年には焼き幅も広くなり、刃色も冴えてきており、鍛えもザングリとしたものから小板目がよく詰んだ地鉄に変化している。
寛文五年以降の井上真改の作域は相州伝古作の正宗、郷義弘に強く私淑したもので広直刃に湾れを交える焼刃を得意として之に華やかな沸が一面について一部は零れて地沸状となり特にこの傾向は物打から上部にその著しい絶頂を示しているものが多い。地鉄から沸く黒い地景は強く且つ頗る冴えもので、闊達な沸状態の冴えは新刀第一の名人とされている。これらの特徴は明らかに親国貞式の大互の目からの移行が見てとることができ、武人からの注文が多かった江戸初期から裕福な大阪町人へと需要が移行していることが考えられる。
さらには同時代に武州の虎徹にも同様の変化が見られることに興味深い。また助広と真改の沸状態を比較すると真改の沸状態は助広より粗めであり「沸勝ちの匂い」、細かな地景が顕著に沸くのに対して助広のそれは「匂勝ちの沸」で地景もさほど目立たない。

さて真改は父と同じく国貞を銘して二十五歳(承応元年)で和泉守を受領、万治四年には十六葉の菊紋を切ることを許され寛文元年より「井上和泉守国貞」寛文十二年八月より「井上真改」と改めた。(初期作に切り付けられることがある菊紋の中心は「格子」で、寛文四年から同十二年の八月まで「丸点菊」となる。そして延宝期を中心とする彼の晩年作は再び「格子菊」となっている。)寛文初年の作域は未だ大互の目が主体であり、また同四年までの作が稀であることは以前より周知のことで、諸説によると寛文初年より四年あたりの一部期間で江戸に修行に下ったと云われている。寛文初年は江戸、下坂康継(二代)や上総介兼重らの活躍があり、また長曽根虎徹に代表された時代でもある。寛文初年は虎徹六十三、四歳ごろ、真改三十二、三歳ころ。このころ(万治三年ごろから寛文五年)虎徹は松平頼元に仕え小石川大塚吹上の別邸に居を構え五十人の扶帯を受けていたころで彼の黎明期(奥里銘から跳トラ銘期)、初期の明暦から万治ごろは志津兼氏を想わせる作風、寛文初年の湾れに尖り刃が交る所詮「和泉守兼定」の作域を経て、次第に匂い深く華やかな作域へと移行している「箱トラ」銘の時代となる。茎尻は寛文の三年以降は先尖りごころだったものから栗尻に変化しており虎徹に短いながらも大阪風の焼きだしがあり、かつ帽子も大阪風「親指」状態の帽子に移行しているのも興味深い。両者は三十一歳の差があれども鍛刀歴は十余年と大差なく、志を同じくする西と東の相州伝最上作刀工を一時期結びつけてみても興味深い。大阪の華美を頂点とした真改と江戸の堅実かつよく最上の斬れ味を誇った虎徹はこの寛文初年を境にして作域を相互とも変えており、より明るく華やかな作風を加味した虎徹の理想が作風の上で完成し、同じく真改は相州伝の本位である郷義弘の作域を理想とし且つよく斬れるという彼の作域を完成させた。

注「まだ戦国の余韻残り、大阪城焼失間もない初代国貞の創世記(元和頃)から二代井上真改の絶頂を迎える寛文から延宝にかけての時代背景や武人・豪族の志向の移り変わり(質実剛健から華美を至高とする)や町人の台頭、数度にわたる帯刀禁止令(寛文八年三月十五日:町人帯刀禁止令、同年五月四日:猿楽等帯刀禁止令、天和三年十二月には再度の猿楽、市人帯刀禁止、貞享四年六月の市人帯刀の禁止)など」