M3640(S7580)

刀 銘 肥前国住人忠吉作

新刀 江戸時代初期 (元和五年頃/ 1619~) 肥前
刃長74.4cm 反り1.4cm 元幅31.6mm 先幅22.7mm 元厚7.3mm

参考品

剣形:鎬造り、庵棟。身幅広く、重ね厚くつく。元先の幅差がさまで開かず反りやや深く付き中峰延びる。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌が精緻によく詰み、地沸微塵に厚くついて地景細やかによく入り、淡く沸映りたち鉄色明るく冴える。
刃紋:広直刃僅かにのたれ、刃縁の沸は帯状に厚く積もる。刃縁には鼠足頻りとかかり、物打ち付近にほつれる刃を交え、刃中処々に葉が浮かび匂い口明るい。
帽子:焼き高く直ぐ調にやや湾れ込み先中丸となり尋常に返る。
茎:生ぶ。茎尻は刃上がり栗尻。鑢目は切。棟肉平。目釘孔一個。佩裏の鎬地にはやや竪長ごころの太刀銘『肥前国住人忠吉作』とある。
 表題の作は現存希な所詮、「住人銘」が刻された初代忠吉の、元和五年頃(1619)頃に鍛刀したと目される作刀。身幅広く中峰の延びた、反りやや深めに均整とれた体躯は南北朝時代の山城物、とりわけ来国光あたりを念頭に作刀しているのであろう。鍛えは小板目の詰んだ明るく美麗な肌を呈して鉄色冴え、地沸厚く微塵について目映い光彩を放ち地景細やかに入る『梨子地肌』を呈する美麗な鍛肌が印象的である。匂口には精緻な小沸の粒子が帯状に厚く積もり明るい閃光を放つ。
 初代忠吉は九州肥前、竜造寺家の抱え工であった橋本道弘の子として元亀三年(1572)に佐賀郡長瀬(現在の高瀬村)に生まれた。名を新左衛門尉という。
天正十二年三月、竜造寺隆信と島津家久の島原の戦いで当主の隆信は戦死し、主家に随った祖父の盛弘も殉死したと伝えられる。忠吉の父、道弘も祖父盛弘の戦死の同三月に病死した。若干十三歳の忠吉は祖父・父を同時に亡くして親族の知遇叶わず、一族の刀工鍛冶に預けられて長期間修業奉公したと伝えられている。
 戦功ある家柄であったこと、誠実な人柄と優秀な腕前から頭角を現し、鍋島勝茂侯御取立となり同家に奉公することになる。家名により慶長元年(1596)、忠吉二十五歳の時に上洛し梅忠明寿に師事すること三年、業なって九州佐賀に帰郷、旧長瀬村から佐賀城下(現長瀬町)に地所を与えられて橋本家一族十五人と番子六十人を呼び寄せ、扶持二十五石の知行を貰い鍛刀に精進した。
 元和十年(1624)二月十八日、再度上洛して武蔵大掾を受領、刀工銘を『忠吉』から『忠廣』に改めた。このときに朝廷より藤原姓を賜り、姓を源から藤原に改めている。同じく『忠吉』の名は娘婿の土佐守忠吉に譲っている。『忠吉』銘は土佐守忠吉のほかは宗家の三代『陸奥守忠吉』、四代『近江大掾忠吉』、五代、六代の『近江守忠吉』、八代、九代の『肥前国忠吉』に受け継がれて『五字忠吉』と汎称されいる。これらの『五字忠吉』銘の作品には、初代をのぞいては、年紀のあるものがほとんどないことから、その代別研究を困難なものにしている。『五字忠吉』銘の多い理由としては、後代忠吉のほとんどが、家督を相続するまでは『肥前国藤原忠廣』と銘を打ち、相続してから受領任官するまでは皆、『肥前国忠吉』(二代だけは生涯『忠吉』を名乗らなかった)と五字銘に切っているためである。
 初代忠吉の慶長五・六年頃から同十四年頃までの『肥前国忠吉』(秀岸銘)時代は明寿の師伝に倣った湾れ刃に互の目交える志津の作刀に範をとったものが多い。『肥前国住人忠吉作』(住人銘)を切銘した時期は、慶長十八年(1613)・同廿年(1615)の年紀作から寛永元年八月日(1624)年紀の約十年程の間に限られ、『肥前国忠吉』五字忠吉銘の時期に混在している。この時期は山城伝の二字国俊に倣った丁子刃や来国光に範をとって小沸本位の中直刃という肥前刀の規範をほぼ完成した時期でもある。この時期には作刀の技倆の点では天性の麗質からか、師を凌ぐほどの腕前に達していた円熟の時期でもある。
 『肥前国住人忠吉作』銘を切付けた時期は、忠吉四十歳代の芸術家として制作構想に苦慮した足跡を窺うことができる。住人銘の作刀には、五字忠吉銘の作柄とは作風を異なるものが散見され、大和風にホツレて帽子掃きかけるもの、美濃関伝が強く帽子は地蔵風になるもの、末備前や相伝備前に範をとり湯走り・帽子も沸崩れるものなどの作風があり、これらの創作刀には住人銘を切付けたとも推測できよう。
 『武蔵大掾藤原忠廣』銘の晩年期は名手の吉信、吉貞、広貞、吉房らの一門をまとめて、鍋島藩の資本力も手伝って共同作業をおこない優作を大量に制作した時期であった。
 寛永九年(1632)八月十五日歿、行年六十一。本作は鍋島家の抱工・初代、橋本新左衛門忠吉の四十代、大成期の優作である。新刀最上作、最上大業物に列位している。
金着せ二重はばき、白鞘入り
参考資料:
本閒順治・佐藤貫一『日本刀大鑑新刀篇二』大塚工藝社 昭和四十一年
片岡銀作『肥前刀思考』昭和四十九年