A30445(S1516)

刀 銘 横山加賀介藤原祐永 菊紋 一 備前長船住 附)朱磯草塗鞘打刀拵

新々刀 江戸時代後期(天保四年~嘉永四年/1833~51) 備前
刃長69.6cm 反り2.6cm 元幅29.8mm 元厚7.0mm 先幅20.8mm

特別保存刀剣鑑定書

附)朱磯草塗鞘打刀拵

剣形:鎬造り、庵棟、身幅、重ねとも頃合につき、腰反り深く付いて茎にも反りがある太刀姿。(刀身拡大写真
鍛肌:小杢目肌よく詰んで地沸つき、精緻な地景がつく。
刃紋:元を直に長く焼きだし、匂い本位の互の目に丁子乱交えて広狭変化がつき賑やか。乱れの谷には沸が凝り、匂い充満して清涼なる刃中の丁子足は角度に変化がついて刃先に向かって長く射し込んで美しい。
中心:茎生ぶ、茎孔壱個、浅い勝手下がりの鑢目で棟肉平。刃上がり栗尻張る。佩表鎬地にやや小振りの太鏨で『横山加賀介藤原祐永』の長銘がある。裏には菊紋と一文字を切り、駐鎚地『備前長船住』 がある。
帽子:横手下で鎮まり、直に中丸となり返りはやや深く留る。

 横山祐永は『祐平』の次男、名を横山覚之助という。兄の『祐盛』が後七兵衛祐定の養子となったため、父『祐平』を継いで備前藩工を勤めた。
天保四年(1833)に加賀介を受領、朝廷より十六葉の菊紋と一文字を鎺下に切り付けることを許され、さらに備前一文字の正統なる後継者であることを自称する『友成五十六代孫』と銘を切るものがある。嘉永四年六月二日没(1851)行年五十七歳。
 表題の刀は『祐永』後年の作刀で、銘文は『祐成』(注)が鏨を運んでいる。腰反り強くついた鎌倉時代の太刀姿をしており、地金は小杢目が密に詰んだ精緻な鍛肌をして美しい。刃文は匂い本位の艶やかな丁子乱れが百花繚乱に咲き乱れる。
 古作一文字の太刀に範を採った本作は備前池田宗家もしくは家老の需であろう。三十万石を有する備前藩工を勤めた祐永・祐成両工合作の白眉である。

附)朱磯草塗鞘打刀拵(拵全体写真 /刀装具拡写真
  • 縁頭・鞘鐺:波濤図、鉄地、鋤彫、無銘
  • 目貫:万年青図、赤銅地、容彫、金色絵
  • 鐔:太公望図、木瓜形、鉄地、槌目地、打返耳、象嵌、無銘
  • 柄:白鮫着、黒漆塗革片手菱巻
鍍金一重はばき、白鞘付属
注)備前藩工を勤めた横山祐平、祐永、祐包の三工は『長船三羽烏』と称されてその技倆と功績を賞揚された。
注)横山祐成は上野大掾祐定(注)の門人。備前長船友成五十六代孫と称し、天保十・十一・十四年紀の作刀がある。『於備後福山鍛之』の添銘がある作刀があることから阿部氏の需に応じて福山に鎚住したことが判る。祐成二代目は備前長船友成五十七代孫を名乗り、嘉永五・六・七年紀を観る。

(注)上野大掾祐定は七兵衛尉嫡子、名を横山平兵衛という。宗家の与三左衛門尉祐定六代目を継いだ名手で新刀期備前刀工の大御所として高名。祐定一流の蟹の爪を交えた丁子乱れを得意とし、公卿一条家に仕え上京し作刀、寛文四年七月十一日上野大掾を受領。万治末年から正徳年間(1660~1715)までの作刀年紀があり、享保六年十一月二十九日(1721)歿、享年八十九の長寿であった。以降、七兵衛尉祐定家は定治祐定(寿守)の十代まで続いたという。

参考資料:『長船町史』長船町 平成十二年