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刀剣徳川 Tokugawa Art
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A24681(W2892)
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脇差 銘 山城住藤原義高 附)黒漆菜種塗鞘脇指拵
新刀 江戸時代前期(寛文頃/1662~) 山城・越前
刃長46.8cm 反り1.4cm 元幅32.6mm 元重7.3mm 先幅23.1mm
保存刀剣鑑定書
附)
黒漆菜種塗鞘脇指拵
剣形:鎬造り、庵棟が高い。身幅が殊の外広く、刃と棟の区は共に深い。反りがやや深めについて中鋒が延びる。(
刀身拡大写真
)
鍛肌:小杢目肌よく練れて詰み、刃寄りは柾目流れ、鎬地は柾目肌。地錵厚く付いて太い地景入る。
刃紋:刃区際ごく短く焼き出し、小錵出来の小互の目連なり、処々箱がかり、刃中互の目の足入り、葉浮かぶ。互の目の谷に砂流ししきりとかかる。
帽子:横手下で互の目を焼いて直ぐとなり、中丸に返る。
茎:生ぶ。鑢目勝手下がり。目釘孔一個。茎尻は刃上り剣形。棟肉平でここには大筋違の鑢目がある。佩表には『山城住藤原義高』の長銘がある。
寛文頃の『義高』は山城三品金道の門下で越前での作刀もあり、『越前住義高』と駐鎚地のある作刀がある。同じく三品金道門下、尾張『
正全
(
まさとも
)
』との合作があることから尾張刀工との交流を覗うことが出来る。
寛文から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められた。尾張徳川家初代、義直に剣術指南役として招かれた『柳生兵庫助
利厳
(
としとし
)
』(1579~1650)や実子
柳生連也厳包
らにより継承された柳生新陰流は尾張国の『御流儀』として代々一子相伝の秘法として継承されきた。尾張刀はは質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと業物としての名声を世に知らしめた。
本作は尾張国『御流儀』としての需打ちであろう。元の身幅は殊の外広く、鎬筋高い強靱な体躯は武士委の貫禄を湛え、地錵に呼応して太く表出する地景は硬軟の鋼を折り返し鍛錬した証。茎の鑢目、銘字の鏨は鮮明で保存状態がよい。
附)
黒漆菜種塗鞘脇指拵
(拵全体写真
表
・
裏
/
刀装具各部写真
)
縁頭:波に貝尽くし 釣瓶農具図 赤銅地 高彫 色絵 無銘
目貫:玉追龍図 容彫 金色絵
鐔:滝図 四方猪目透 鉄地 鋤彫 金象眼 銘 正阿弥 包矩
小柄:龍虎図 赤銅魚子地 高彫 色絵 政随と銘がある
柄:白鮫着 金茶色常組糸諸撮菱巻
尾張金着二重はばき・白鞘入
*正全まさとも(注)は尾張の産。名を『石田善左衛門尉』という。美濃国板倉関『正利』の末葉で公儀普請による名古屋城築城の慶長十五年(1610)に生まれた(注)。はじめ山城国の三品金道の門人となったのち名古屋鉄砲町に住した。寛文四年(1664)四月二十五日に豊後大掾を任官し、のちに豊後守に転じている。明暦三年にはじまり延宝九年までの制作年紀を刻した作刀がある。
*『正全』の読みについて『尾張刀工譜』では”まさとも”と記され、『日本刀銘鑑』では”まさやす”もしくは”まさみつ”と表記されている
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月
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