A78461(S3280)

刀 銘 備前岡山住藤原国宗作 附)青貝微塵散漆塗鞘打刀拵

新刀 江戸時代前期(寛文頃・1661~) 備前
刃長 68.2cm 反り 1.2cm 元幅 30.6mm 先幅 19.2mm 元厚 7.0mm

特別保存刀剣鑑定書

附) 青貝微塵散漆塗鞘打刀拵

保存刀装具鑑定書(鐔)

剣形: 重ね厚く庵棟やや低めに頃合の反りがつく。元身幅広くに踏ん張りがつき、元先の幅差頃合について中峰やや詰まりごころ。(刀身拡大写真) 鍛肌:小杢目肌よく詰んで錬れて美しく強靭な鍛肌。 刃文:元を短く焼きだし、匂口締まる互の目乱れに処々島を焼き、中頃より丁子に重花丁子、腰括れた蛙子丁子を交えて焼刃高く鎬地にかかるところがある。処々跳び焼きかかり絢爛豪華な大乱れ。 帽子:横手下で小互の目連ねて横手で鎮まり直調となり中丸となり深く返り棟焼きに繋がる。
茎:生ぶ。先僅かに摘まみ浅い栗尻に結ぶ。目釘孔一個。勝手下がりの鑢目、棟肉ついてここにも勝手下がり鑢目がある。茎佩表の鎬地には大振りで深い鏨の長銘『備前岡山住藤原国宗作』がある。

 中世から近世への転換する時期になると、古刀期に全国生産量の七割近くを担った長舩の刀剣は、火縄銃伝来による戦闘方法の変革や文化および社会構造の変化の影響を受けて大変革を迎えた。さらには天正十九年(1591)の吉井川大洪水による備前長舩鍛冶の壊滅的衰退を契機としたことも大きな要因であったろう。徳川家による幕藩体制が整うにつれて、都市でない備前や大和などでの鍛刀の衰退がさらに顕著になった。備前の地では商興業および流通の中心は長舩から城下町の岡山へと移行している。
 江戸時代になると武士の象徴としての刀剣は必要不可欠のものでありながらも、戦場で実利として消耗される需要ではなくなり、美術刀剣としての高い精神性と多彩な美の追求をもって需められるようになり、各々の自藩内で賄う藩工の重用が時代の要請であった。
 『国宗』は岡山藩工の東多門兵衛正成(寛永頃)の子で茂右衛門という。長兄に正次がいる。『備前岡山住藤原国宗作 万治元年八月吉日』の年紀作がある。茂右衛門の実子、元禄頃の彦左衛門は二代目国宗を襲名し茎に『林彦左衛門尉国宗』と刻したという。東多門兵衛派の鍛冶は城下岡山に居住し藩の需に応じて古作備前伝を踏襲して鍛刀した。
 本作は岡山藩士による需であろう、豪華絢爛たる丁子乱れを魅せて福岡一文字の作刀を彷彿させる同工の優作である。艶やかで出来優れた時代打刀拵が附されている。

附)青貝微塵散塗鞘打刀拵 (打刀拵全体写真刀装具各部拡大写真
  • 縁頭:采配軍配に馬具図 赤銅魚子地、高彫色絵、無銘
  • 目貫:采配に薙刀図、赤銅容彫、色絵
  • 鐔:軍配散透図、鉄地肉彫、地透、無銘、長州(保存刀装具)
  • 柄:白鮫着、生成色常組糸諸撮菱巻
  • 鞘:青貝微塵散赤銅地波濤図鐺
鍍金時代はばき、白鞘付属
注)中世鎌倉時代、刀工たちの居住地であった福岡庄(現在の長船町福岡地区と岡山市東部の旧上道地区)は皇室の重要な荘園で、当時の福岡一文字派の刀工らは福岡庄の吉井付近に居住して皇室の庇護を受けて広い給田を所有して安定した生活環境で鍛刀していたことがうかがえる
参考資料:
岡崎譲『日本刀備前伝大観』福武書店、昭和五十年
長船町『長船町史 刀剣編通史』、平成十二年