剣形:鎬造り、庵棟。元身幅広く重ね厚く、鎬筋が高く平肉のついた重厚な体躯に腰反りがつき、物打ちやや伏さりごころとなり中峰のびる。(刀身全体写真)
鍛肌:地鉄は板目肌流れて柾がかり、地錵が厚くついて煌き、青黒く沈んだ柾目状の地景が躍動する。
刃文:広直刃は浅くのたれて刃縁には小沸が厚くついて小乱れ交え、ほつれる刃や二重刃を頻りと交えるて明るく冴える。刃中は匂い深く充満して澄み、小足頻りとかかり、葉浮かび、沸匂いの豊かな働きがある。
帽子:表裏とも焼き高く、強く掃きかけて火炎風となり焼き詰めごころ。
茎:茎にも反りがついて腰反りがつく。大きな目釘孔二個。浅い勝手下がりの鑢目、茎棟肉平に此所には極浅い勝手下がりの鑢目がある。佩表の平地には細鏨で大振りの古雅な鏨運びで刻された長銘『豊後國朽網郷住人則貞作』、裏には日付まで刻された年紀『于時宝徳三季二月十五日』がある。
豊後国朽網は竹田城下(現在の大分県竹田市直入町大字長湯)に位置する。豊後竹田城は後醍醐天皇の召命を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張整備された山城。志賀氏は同郡内の松牟礼城を居城としていたが、応安2年(1369)以降は同郡内の竹田城に移り『岡城』と名付けたという。
豊後国は霊峰英彦山に千手院派の僧鍛冶『定秀』が顕れ、後鳥羽上皇御番鍛冶『行平』の出現につづく名匠を育んだ。元寇の役では武勇の誉れ高き鎌倉武士・防人たちが集い、南北朝期には山城から戦災を逃れて『了戒』が移住。また高田の地に鞴を構えた『友行』は備前長船に出向いて相伝備前を学んだという。さらには重要文化財の短刀『銘 三嶋大明神他人不与之 貞治三年藤原友行』があることから相州鎌倉に出て貞宗に学んだとの説もある。
この刀は騎馬戦を念頭にした猛者の大刀であろう。弐尺五寸四分強と寸がのびて先伏さり、身幅広く重ね厚くついて鎬筋高く平肉のついた豪壮な体躯をしており、鍛えは板目がよく錬れて詰んで柾目肌顕著。刃縁には小沸が厚くついて柾目肌に呼応した金線、砂流しが明瞭に顕れて明るい閃光を放つ。銘も思い切って大きく刻されており、裏年紀も鮮やかに二月十五日まで記している。第二目釘孔は頑強な柄前に極太の目釘を用い二箇所で固定した証である。
中央から遠く離れた北九州の地で大友氏一族の特別な需により精鍛されたこの刀は現在の豊田市、挙母内藤家の伝来。千手院派の大和色を魅せ、製作当初の体躯を留めて地刃ともに頗る健全。古雅な鏨運びの長銘及び月日まで刻された制作年紀は頗る珍重で『光山押形』の所載品である。歴史・資料的価値も高い。朽網の地の主な刀工には宝徳二・三年紀を有する表題の『則貞』および門人の『貞康』のほか、明徳三年紀の『秀次』がいる。
金着二重はばき、白鞘入
参考文献:
本間薫山『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年