G35769(T5016)

寸延短刀 銘 若狭守氏房 附)銀包一分刻鞘小さ刀拵

古刀 室町時代末期(永禄十三年~/1570) 尾張
刃長30.2cm 反り0.2cm 元幅27.3mm 元重5.0mm

特別保存刀剣鑑定書

附)銀包一分刻鞘小さ刀拵

 

 

剣形:平造り、庵棟。寸延びて、尋常な身幅にやや薄めの重ね。ごく浅い中間反りがついた室町末期頃に流布した寸延短刀の姿。表裏の茎に掻き流し棒樋の彫物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌よく錬れて刃寄り流れ潤いのある美麗な鍛肌。細かな地錵付いて沸映りがたち鉄色冴える。
刃紋:小沸の付いた湾れに互の目を交えて表裏の刃はよく揃いごころ。逆がかった背の高い腰括れの丁子刃や尖り刃に跳焼を交える。刃中は匂深く充満し、砂流しかかり匂口が明るい。
帽子:乱れ込んで凛として突き上げて地蔵風となり返り深い。
中心:生ぶ。刃長に比して小降りな茎は茎尻が細くなり栗尻に結ぶ。刃側が丸く、棟肉平。上半の鑢目は勝手下がり、下半は大筋違。茎孔弐個。佩表の中頃には『若狭守』の任官名を、工銘『氏房』をやや大振りに鏨を運ぶ。
 『若狭守氏房』は天文三年(1534)、関七流中の善定家である清左衛門兼房の三男として岐阜に生まれた。姓は河村、名を京三郎と称し、初銘を「兼房」という。弘治二年(1556)、長兄の岩見守国房より善定家の惣領を譲られて嫡子となり名を清左衛門と改めて関に移住している。
 永禄十三年(1570)四月十九日、三十七歳の時に清左衛門少尉に任ぜられ『氏房』と改め、三日後の二十二日には若狭守を受領している。
 尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)信長に従い近江国安土城下で駐鎚。同十年(1582)六月二十一日、『本能寺の変』で信長自害の後は岐阜に帰郷して織田信孝の扶持を受け、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持を受けて鍛刀に励んだ。
 相模守政常、伯耆守信高と並んで尾張三名工の一角を占める優工である。同十八年(1590)五月十一日没、享年五十七。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前若州大守良屋宗善居士』。
 熱田神宮には「氏房」に改銘する前の代表作で愛知県の指定文化財、太刀 銘 「河村京三郎 濃州関住兼房作」、刀身に切付銘で「永禄十一年二月吉日 奉寄進熱田太神宮 兼房作」がある。また、織田信長の安土城築城後に駐鎚した脇指 銘 「若狭守氏房 江州安土住人」がある。
 本作は『若狭守』の任官をやや小さめに鏨を運ぶ手癖を鑑みるに、永禄十三年~天正初年頃、同工三十七歳からの四十代、壮年期の作であることが鑑せられる。
 天下布武を目指す織田信長と浅井・朝倉両軍との軍事的・政治的決戦、元亀元年(1570)の『姉川の合戦』、『石山本願寺の一向一揆』や元亀二年(1571)『比叡山焼き討ち』などの戦国時代を背景とした本作は、太刀の添指しとして武将に求められた腰刀様式の寸延短刀で茎の錆味良好に鑢目、銘字の鏨も鮮明である。

銀包一分刻鞘小さ刀拵(拵全体写真)(刀装具拡大写真
  • 総金具(縁頭・鐔・口金・裏瓦・返角・鐺):黄銅皺革地 無銘
  • 目貫:貝尽図、赤銅容彫、金色絵
  • 小柄:銀磨地、一分刻同作 無銘
  • 柄 白鮫着納戸色常組糸諸撮巻
金着せ二重尾張はばき(下貝檜垣鑢・上貝切鑢)、白鞘入
参考::『刀 銘 若狭守氏房作 元亀二年八月日
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
鈴木卓夫、杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版、平成十八年五月十一日