T4480(S2220)

刀 銘 繁慶 附)金梨子地葵紋散鞘衛府太刀拵

新刀 江戸時代初期 (元和1620-1623年頃) 武州
刃長70.0cm 反り1.5cm 元幅29.8mm 元厚6.9mm 先幅19.4mm

特別保存刀剣鑑定書
鑑刀日々抄・刀剣美術177号所載

附)金梨子地葵紋散鞘衛府太刀拵

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剣形:鎬造り、庵棟高く、重ねがやや厚い。元に踏ん張りがあり、元先の幅差頃合いで中峰やや詰まりごころ。やや浅めの中間反りが付く上品な姿をしている。 表裏には角留の二筋樋の彫り物がある。(刀身拡大写真)(全身押型
鍛肌:板目に大板目・杢・流れ肌交じり地沸厚くつき、鉄色黒づんで底に沈む様相がある。随所に湯走りかかり、、殊に物打ち付近強く顕れて深淵より黒く太い地景が湧き出す。掃表腰元に一筋の緩んだ鍛肌が顕れる。他に類を見ない肌目は力強く見事である。
刃紋:沸主調の大互の目乱れ。腰元の乱れやや浅く湾れ調になる。刃縁にほつれ、打ちのけかかり、匂深く、沸厚く微塵につき、匂口やや沈んで地刃の境は深い沸で煙込んで刃境は判然としないほどに沸明るく冴える。物打ち辺りは特に沸強く大粒の沸が刃縁に絡む。ここに長い金線・稲妻・砂流著しく表出している。
帽子:烈しく沸ついて一枚風となる。
茎:生ぶ。茎孔二個。やや区送り。同工独特の形状をしており、庵の卸し高く両区が深い。鑢目は表が大筋違い、裏は逆筋違鑢で棟には檜垣鑢がある。茎尻は極端な刃上り栗尻で先端の刃側を卸してV字形に鋭く仕立てた『薬研形茎』とする独特な仕立てをしている。第一目釘孔下方に彫鏨で刻された『繁慶』の二字銘、通称『ロ又』と称される太鏨で力強い銘があり、銘字の鏨底はV字形、所詮『薬研底』となる。
 繁慶は三州の産。小野氏で姓名を野田善四郎という。鉄砲造りを家業とし駿府に住を構えた。天正十八年頃、徳川家康が東武(江戸)に移封するにしたがい、八王子に暫く住し、江戸鉄砲町(現日本橋本町3、4丁目)に出て、鉄砲工『(あがり)惣八郎』に師事、鉄砲を張り『野田善四郎清堯』と号している。慶長十二年七月、家康が駿府に隠居するに及んで同工も又駿府に随い、火縄銃の砲筒鍛造に専念して徳川家康・秀忠の鉄砲を製造している(注1)。同時期に大御所お抱え工である越前康継や南紀重國らの名刀に鼓舞されて精神性に目覚めて刀剣を鍛造しはじめた。元和二年、家康歿後暫くして再度江戸に帰り鉄砲町にて作刀をしている。元和五年~寛永元年の間に『繁慶』と茎に彫るようになり、刀工に専業したと思われる。繁慶の年齢については、推測の域をでないものの、天正十八年、家康にしたがって江戸に移ったときを二十五歳と仮定すれば、家康の歿年元和二年は五十二歳である。このように推測すれば、繁慶の鍛刀年代は『清堯』銘で作刀したのは慶長末年~元和初年頃までの間で、『繁慶』改銘は元和五年~寛永初年の六十歳頃と思われ、歿年は寛永年間後半とされている。このことから現存する『繁慶』作刀数は数十口を出ないと云われることも首肯できよう。
 砲筒鍛造の鍛造りの技から独特の鍛造を創案して、おそらくは繁慶が私淑した古作『則重』や『正宗』に迫る古色蒼然たる鉄色を放つ自由奔放で個性豊かな作風を示している。硬軟の卸し鋼を鍛えあわせた独特の肌合いが同工の最も顕著な特徴である。焼刃は沸付がもっとも強く、刃縁と地沸・湯走りとの判別が付きかねるほどのものがあり、刃縁が判然としないものが多い。併せて鉄色が黒づんで焼刃の匂口が沈みごころとなるのも同工の特徴である。
 本作は匂口沈む気配はあまりなく、刃明るく冴えて金筋・砂流しが物打ち以上著しく表出しているところが見所である。さらに本作は同時代の慶長新刀然とした、身幅が広く、元先の幅差が少なく鋒がのびた姿ではなく、腰で踏ん張りがあり中峰に結ぶ上品な姿をしている。地鉄は板目に大板目・杢・流れ肌が交じり、肌目が目立ち、太く黒い地景が頻りと入る鍛えをしており、所詮『ひじき肌』と称される様相を示すのは同工の見所ではあるが、鍛え合わない肌目は掃表の腰元に僅かに看取するのみで、比較よく錬れた鍛肌といえよう。同作には三ツ棟が多いが、本作は卸しの急な庵棟となっている。角留の二筋樋の彫り物は他に一口(第二十二回重要刀剣指定)を観るだけである。鑢目は表が筋違い、裏は逆筋違であることは同工の特徴であるが、本作は棟の檜垣鑢はあまり目立たない。茎尻は独特の刃上がりの強い栗尻形状で茎尻の刃側の角を取り『薬研形茎』になっている。同工の銘は彫鏨を使い、鏨枕跡がないのも特徴である。『繁』の字の『敏』の旁の書風が『ロ又』になっていることから、元和後年、繁慶壮年期の作品であろう。
 個性豊かな繁慶の打刀は作刀数も少なく慧眼することは稀有である。壮年期の力強い彫銘運びや格式のある剣形、地底から湧き出す太い地景に清らかな沸が厚く降り積もり明るく輝き、鍛肌に呼応して自然に表出する太い金筋や砂流しが刃中に密集するなどの傑出した本作は、作者の烈しい気性(注2)と芸術家の魂が乗り移ったかのようである。
付帯の金梨子地葵紋散鞘衛府太刀拵 (讃岐松平家伝来) : (太刀拵拡大写真刀装具拡大写真
総金具(兜金・縁金物・口金物・山形金物・長足金物・責金物・石突金物)唐草文図唐金魚子地 葵紋据象嵌
目貫 三双葵紋図 赤銅容彫
俵鋲 銀地容彫
目釘 葵紋銀地
鐔 分銅形 唐草文図唐金魚子地 葵紋据象嵌 蔓金付
切付銘 太刀師 章眠作 應讃岐松平家需造之
銀地渡金太刀はばき(太刀拵用)・金着はばき(白鞘用)白鞘付属(本間薫山鞘書・昭和四十六年
本間順治 『鑑刀日々抄』・『刀剣美術177号』 日本美術刀剣保存協会 所載
参考文献:本間順治、佐藤寒一 『日本刀大鑑 新刀篇二』 大塚工芸社 昭和四十一年

(注1)砲筒鍛造は慶長十六年から同二十年に至る五年間におよぶ製作期間であった。家康公所持のものは久能山東照宮に納まり重要文化財に指定されている。尾張、紀州、水戸の三家は各二、三挺ずつ現存し、(紀州家のそれは国立博物館蔵になっている)それに4挺の出雲神社など神社に伝わるものなど推計十七~十八挺が残っていると言う。徳川家御用の銃には『日本 清堯(花押』、奉納銃には『野田善清堯(花押』と銘を彫る。神社のもの以外は同じ形状、長さであることが興味深い。繁慶の刀は重要文化財が三口、重要美術品が六口指定されている。
(注2)時の本阿弥に正宗と極められて憤慨したり、旧吉原で無頼りの徒と喧嘩して闇討ちに遭遇して失意のうちに果てたなど烈しい性格を物語る逸話がある反面、信仰心厚く、全国の社寺に自作の鉄砲や刀剣を多数奉納している。