剣形:鎬造り、庵棟。小振りの打刀で反りは浅め。元身幅頃合いに、重ねが薄く中切先に結ぶ。佩表には三鈷剣、裏には梵字に蓮台の彫物がある。(刀身拡大写真)
地鉄:小板目詰んでやや粗めの地錵が湧き、鉄色冴える。
刃紋:長い京風の焼だしがあり、大互の目は濤瀾風となり錵深く厚く積もり、刃縁にはやや粗めの錵が溢れる。刃中は太い錵足が入り、刃縁は頗る明るく冴え、刃中は小錵充満して明るい。処々棟焼きがある。
帽子:横手筋で鎮まり、直ぐ調に僅かにほつれ、返り深く棟焼に繋がる。
茎:生ぶ。鑢目は大筋違いに化粧鑢。茎棟に小肉が付く。茎尻は刃上がり剣形。目釘孔壱個。佩表の鎬筋上、目釘孔下に大振りの五字銘で『水心子正秀』、裏の鎬地上方には小振りの草書体で『寛政元年八月日』の年紀ある。
水心子正秀は羽州山形近くの赤湯在(現在の山形県南陽市赤湯)にて寛政三年二月(1750)、山形藩士の子として生まれた。幼名は三治郎。父が夭逝したため、母子ともに赤湯温泉に住む親類の鈴木権次郎のもとで育ち、名を鈴木三郎宅英と称した。幼少より鍛刀に強く私淑し、十八歳の頃には山形城下に出て武州八王子の下原吉英に師事し、初銘を『宅秀(いえひで)』、のちに『英国』と銘している。
安永三年(1774)には出羽国山形藩の藩工となり、銘を『川部儀八郎正秀』と改め『水心子』と号している。『正日出』、『正日天』と捩った銘もある。上野国(こうずけのくに)館林藩の藩工を勤めながら、武蔵国江戸浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に住して「濱町老人」などと称し、大慶直胤や細川正義などの多くの門人を指導した名人であり、文筆にも長じて学識広く刀剣学者でもあった。鍛刀技術の革新に尽力した新々刀の先駆者と称されている。
文政元年(1818)八月、六十九歳で息子の『貞秀』に『正秀』銘を譲り、自身は『天秀』、『水心子老翁』などときる。同八年九月二十七日(1825)没、享年七十六。
ほぼ五十年におよぶ作刀期間は、初期の安永、天明頃(1774~1789)は古刀相州伝を、中期の享和頃(1790~1804)は、津田越前守助広を新刀第一の名匠とした、鎌田魚妙『新刀弁疑』前川六左衛紋、安永八年(1779)の影響を受けて濤瀾乱や井上真改の直刃湾れのような華美な大阪新刀風の作刀期を経て、後期は諸伝の研究から相州伝の強焼や新刀特伝の非を悟り、文化文政(1805~1825)の晩年には華美を嫌い、復興鍛錬法を提唱して古備前風の優しい姿に焼幅の狭い小丁字乱れを主調した。
この刀は寛政元年紀(1789)があることから、正秀40歳ごろの作刀。助広の濤瀾乱が世上でもてはやされた中期の代表作である。表裏の彫物は比較簡素なものであり、正秀の自身彫りであろう(意匠濃厚な彫物の多くは門人の本荘義胤の手による作品である)。
彼の濤瀾乱は助広のそれと比較して、焼出しが京風に長くなること、大互の目に大小があることや二つに連なる手癖、刃縁の錵は均一にならない点や地にやや粗めの錵が溢れる点などが指摘されている。
附帯の黒漆塗千段刻鞘秋草図打刀拵:(刀装具各部拡大写真)・(拵全体写真)・(白鞘佐藤寒山鞘書きあり)
白鮫着金茶色細糸菱巻柄
縁頭:秋草図赤銅地高彫金色絵
目貫:御幣図赤銅容彫
二所物:秋草鈴虫図赤銅地高彫金色絵
鐔:秋草鈴虫図赤銅地金色絵
黒漆塗千段刻鞘・鯉口、栗形、瓦、鐺:秋草図銀地高彫
内外ともに製作当時の健躯を保ち保存状態も良く資料的価値も高い完存の優品である。
金着一重はばき、白鞘入(佐藤寒山博士鞘書)