剣形:平造り、庵棟。寸法が頃合いの懐剣。重ね厚く、先わずかに内反り。佩表には旗鉾、裏には二筋樋に鍬形の彫物がある。(刀身拡大写真)
鍛肌:地鉄は精緻な小板目肌が緊密に詰んで潤い、微細な地錵厚く付き、鍛接面の白銀と漆黒の地景が織りなす緻密な柾目肌を表出して美しい。
刃紋:浅い湾れ、小錵が強くついて匂い口深い。柾目の織りなす地景は刃縁に絡み、太い金筋となり、一部は綾杉状の稲妻、ほつれる刃を交えて刃縁に金線かかり、刃中は柔らかな匂で霞が満ちて、此所にも砂流しが頻りと流れる。地刃ともに頗る明るく冴えた光を放ち、錵匂の豊富な働きがある。
中心:生ぶ。茎尻は栗尻形。茎孔壱個、鑢目は大筋違に化粧。履表には銘『月山貞一作(刻印)』、裏には『明治四年初秋』の年紀がある。
帽子:先尖り、激しく掃きかけて火炎風となり、やや深く返る。
月山貞一、俗名弥五郎は天保七年二月(1836)、塚本七兵衛の子として近江に生まれた。月山古伝の復興を目指した貞吉が近江国に在住の際、七歳で養子となり鍛刀術を学び、僅か十六歳で義父貞吉の脇指に櫃内滝不動明王を彫刻している。肌立つ古式綾杉鍛肌の伝法を、精緻かつ美的な綾杉肌へと昇華させて新時代を築いている。明治九年(1876)の廃刀令を迎えて多くの刀工が鍛刀を断念していく情況下で、貞一は鍛刀に励み、皇室の剣や短刀を製作している。明治三十九年(1906)には帝室技芸員(人間国宝)に指定されてた。大正七年(1918)七月十一日没、行年84。
この短刀は明治四年(1871)の年紀があることから、貞一、三十五歳の作である。護身用の懐剣として鍛刀されたものであり、身幅重ねともにたっぷりとした姿に精緻な小板目を敷き詰めて柾目状の地景が湧き出す平地には守護神である毘沙門天の留守模様を示す旗鉾の彫物、裏には二筋樋に鍬形の彫物がある。彫刻は新々刀三大名手(栗原信秀、本荘義胤、月山貞一)の一人に挙げられる名手である。この技法は子の貞勝や孫の二代貞一に受け継がれている。
附)潤色漆塗鞘丸に剣酢漿紋唐草図呑込合口拵
- 総金具(縁頭、鐺、小柄):剣酢漿草紋唐草図、四分一、磨地、片切彫、小柄 銘 大岡政次(花押)
- 柄:白鮫着納戸色常組色菱撮巻
- 目貫:菊花図、山銅地容彫、うっとり色絵
金着はばき、白鞘入