剣形:鵜の首造り、庵棟が高く、鎬筋が殊のほか高い。身幅広く、反りがやや強めについてふくらが張る。
鍛肌:板目肌に流れる肌を交え、地錵が厚くついて黒みがかった地景が湧き出す様で、刃寄りは二重三重と湯走り状にやや粗めの錵が溢れる。
刃紋:錵本位の湾れ刃。匂い深くやや粗めの錵が付き、一部は跳焼状態となり、ふくら付近平地は皆焼ごころに島を焼いてここに太い錵筋、金筋が芋蔓状態に長く絡んで、錵匂いの闊達な働きがある。
帽子:乱れ込んで中丸に返る。。
中心:生ぶ。刃上がりの茎尻。鑢目は大筋違。茎孔弐個。佩表の目釘孔下にやや大振りの銘『飛騨守藤原氏房』とある。
飛騨守氏房は若狭守氏房の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父である若狭守氏房が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男織田信孝の小姓として出仕し、父と共に織田信長に仕えた。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父若狭守氏房について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。同二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住し、寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』。
銘は刀や脇指の場合、目釘孔の下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたもの(本作)は壮年期の作に多く見られるとも云われている。
二代氏房の手になるこの脇指の地鉄は、板目肌に柾目交え、よく詰んで美しく至って強い肌となる。脇指にまま見受けられる鵜の首造りは鎬地が狭く、平地が広く、鎬筋が殊の外高く、身幅広く反りがやや深く付いてふくらの張った強固かつ勇壮な姿をしている。刃文は錵本位の湾れ刃、やや粗めに錵づき、二重刃となり、上半は地に錵溢れ湯走りとなり、ここに太く長い地景が絡む。平地はやや粗めの錵が厚く付いて、黒い地景が湧き出して刃縁に二重三重状に湯走りとなり、ここに芋蔓状の太く長い金線がつくなど、その地刃はさながら郷義弘の作域に迫るもので出来がよい。
附帯の黒漆塗竪木白檀塗鞘尾張脇指拵は江戸時代中期の作品と鑑することができる。
縁頭 武蔵野図 赤銅石目地 高彫 金銀色絵
目貫 李白図 赤銅地 容彫 金銀色絵
小柄 十二支図 赤銅魚子地 高彫 金色絵 裏板素銅
鍔 唐草文散図 変形 鉄鎚目地 金布目象嵌 丸耳 片櫃孔
柄 白鮫着 黒糸菱巻
内外共に尾張上級藩士の腰刀として伝承されているもので頗る健全な体躯を誇る完存の優品である。
時代銅はばき、白鞘付属。