K60546(W2893)

脇指 銘 対馬守藤原宗利 寛永二拾暦八月吉辰

新刀 江戸時代初期(寛永二十年/1643) 尾張
刃長 44.8cm 反り 1.2cm 元幅 36.5mm 元厚 6.2mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造り、庵棟。寸延びて身幅殊の外広く、重ね厚くやや深めの反りがつき、ふくらの張った豪壮な段平造り。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌よく詰んだ精良な地鉄に地斑調の白け映りがたつ。
刃紋:匂口締まりごころの中直刃は僅かにのたれて、小乱れ交て小足頻りとかかる、処々ほつれる刃を交え、物打ち上部は焼刃広い。
帽子:先小丸に突き上げて深く焼き下げる。
中心:生ぶ。茎尻は刃上がり入山形。勝手下がりの鑢目。茎孔三個。棟方平で此所にも勝手下がりの鑢目がある。履表のやや棟寄りには『対馬守藤原宗利』の長銘、裏には『寛永二拾暦八月吉辰』の制作年紀がある。

 慶長15年(1610)、名古屋城の建造が開始され四年の歳月をかけ完成にいたる。当時六万人余の暮らす清洲城下から百二十あまりの寺社、町名もそのままに移転させる『清洲越し』の計画は徳川家康の権力を天下に知らしめ、元和2年(1616)初代藩主義直が駿河より名古屋城に移り、御三家筆頭として六十二万石尾張藩の財政基盤を確固たるものにした。
 表題の鍛冶『対馬守宗利』は名古屋城開府の桃山時代に初代『近江守宗利』を伴って美濃国岐阜から尾張に転住した所謂、『尾張関』の一派。初代藩主義直の斡旋で朝廷から『対馬守』および『近江守』任官の勅許を得て二代に亘り尾張鍛冶町で繫栄した。
 この段平造りは打刀の添指しとして特別な需打ちであろう。殊の外身幅広く、重ねも厚くつき中間反りの量感ある姿は裁断に適した体躯。尾張藩士の質実剛健たる尚武の気風を湛えた見応えがある。同工の現存作刀中、もっとも時代の上がる寛永二十年紀(1643)が刻された重要な資料でもある。表の物打ち刃中に僅かな鍛え割れがあります。
時代山銅はばき、白鞘入

参考資料:
岩田 與『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会 昭和五十九年