A57278(W3193)

毛抜形蕨手刀 銘 羽山円真 明治卅五年八月日

現代刀 (明治三十五年/1902) 東京都
刃長40.9cm 元幅28.2mm 元重5.3mm

保存刀剣鑑定書

剣形:毛抜形蕨手刀、鋒両刃、丸棟。刺刀風に内反りつく。身幅、重ねとも頃合に、平肉つかずふくら枯れる刺突に長じた造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:地鉄は小板目が微塵に詰んだ精良な梨子地鍛に地沸が微塵につく。
刃紋:錵出来の湾れ刃。刃縁には沸厚く積もりほつれる刃を交えて匂い口明るい。
帽子:湾れて中丸となり、棟に深く焼く下げる。
柄:共鉄。毛抜形を透かした蕨手形状。鉄黒漆塗長角丸形喰出鍔。共柄には『羽山円真』の銘、さらに裏には『明治卅五年八月日』の制作年紀が刻されている。鞘は琴糸茶漆塗、足金具、責金、鐺は鉄黒質塗
 蝦夷東北の地、古代刀は、柄頭が丸く湾曲し、『早蕨(さわらび)』の頭部に似ていることから『蕨手刀』と呼ばれる。蝦夷では奈良時代末期から平安時代初期になると、『毛抜形蕨手刀』と称される剣形が現れるようになる。律令政権側の直刀では、鐔の装着は茎側から入れて柄木を用いるが、蝦夷の蕨手刀の鐔の装着は切先からで、柄木を用いない共柄(共鉄柄)となっている。重量を軽減し、かつ衝撃を吸収するために毛抜形の孔をあけたという。
 律令政権が蝦夷に進出する過程で、地場の人びとはその支配下に置かれて『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれた。平安時代中期になると、奥州の俘囚鍛冶たちにより考案された毛抜形太刀は天皇を警護する衛府太刀として採用されて一分の高位高官に採用されるようになる。平安時代後期になると毛抜形太刀に柄木が装着されるようになり、蕨手刀から太刀へと変貌していった。
 表題の毛抜形蕨手刀の羽山円真、本名鈴木正寬は現在の豊橋市、吉田藩の家臣の子として弘化二年(1845)に生まれた。父同様に豊橋藩士として仕えていたが一念発起して刀工に転じ、源清麿の高弟、鈴木正雄に師事して江戸下谷区谷中清水町に鞴を構え、初銘は『正寬』、『浄雲斎』と号した。
 同工は清麿に多大なる影響を受けた最期の刀匠であり、明治・大正を代表する名工である。自ら粟田口伝を専らと称して古作山城伝を得意とした。『大村益次郎』の佩刀を鍛造し、明治30年『伏見宮貞愛親王』より小烏丸模造を拝命鍛造した以降は、毛抜形蕨手刀などの古剣の復刻模作を得意とした。
 熱田神宮で鍛刀した『浄雲斉羽山円真造之 明治四十二年二月日さくらかり干時六拾四 』がある。『大正正宗』と称された業物を制作し、近世試し斬りの名人でもあった。
 この毛抜形蕨手刀は羽山円真、五十七歳円熟の作。喰出鍔、足金具、責金、鐺も同作と鑑せられる生ぶ品で昨年まで岡崎市の私立博物館の所蔵品であった。
古研ぎのため処々に錆があります。
参考文献:岩田與『尾張刀工譜』名古屋市教育委員会、昭和五十九年