Y3859(S1514)

小太刀 銘 兼延 附)金梨子地丸に隅立四つ目紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵

古刀 室町時代中期(明応頃/1492~)尾張
刃長 59.9cm 反り 2.5cm 元幅 28.3mm 先幅 22.1mm 元厚 6.25mm

特別保存刀剣鑑定書

附)金梨子地丸に隅立四つ目紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵

特別貴重小道具認定書

剣形:鎬造り、庵棟。身幅尋常に鎬高く棟肉を削いだ強靭な体躯に、元先の幅差はさまに開かずに大峰に結ぶ。腰反りに先反り深くがついた素早い抜刀に適した造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:地肌は板目に刃寄り流れる肌を交えて総体に肌目たつ。やや白けごころの地沸を敷いて太い地景が湧き出す強靭な鍛肌。
刃紋:沸本位の刃文は皆焼、互の目・丁子、飛焼に棟焼を交えて賑々しく様々に変化して匂口明るく、刃中は金筋・稲妻を明示する焼刃は明るく冴える。
中心:一寸五分程の磨上げ、区送り。表の鑢目は逆鷹の羽、裏は切鑢で、栗尻に結ぶ。目釘孔二個(内一個埋)。佩表の鎬地には『兼延』の古雅な二字銘がある。
帽子:焼強く烈しく乱れ込み掃き掛け、返りを断続的に棟区まで焼き下げる。
 
銘鑑よると兼延』は直江志津一門として応安頃(1368~)にその工銘が見られる。同派は南北朝統一の需要の低迷による衰退や度重なる河川の氾濫により、直江の地を離れて関や赤坂の地に移住したという。
 室町期、明応頃(1492~)の『兼延』は小山(美濃加茂市下米田町小山)に住した『兼存』の子と伝えられ、のちに尾張の地に移住したという。この一派は、志賀(現名古屋市北区金城町)の地や北方の山田町(西春日井郡山田村)に住したことから、『志賀関』もしくは『山田関』と呼称され、『尾張鍛冶』の礎を築いた。
 同派には『兼延』をはじめ、『兼次』、『国次』等がいるが慧眼する同派の作品の多くは『兼延』でまま『兼次』の作刀がある。
『兼延』には明応三年(1494)年紀の作があり、一説によると初代は大筋違の鑢目を施し、明応頃の二代は『逆鷹の羽』を切るという。以降室町時代末期まで数代続いた。
 本作は切先が大きく延び、鎬高く棟肉を削いだ刃抜けの良さを勘案した雄渾な体躯は威風堂々とし、腰反りに先反りを加えた剣形は素早い抜刀を念頭に実利を尊ぶ武士の息吹を湛えている。深淵より湧き出す板目に柾を交えた鍛肌は地沸を敷いて地景が縦横に織りなす強靭な地鉄。打ち合いに備えての棟焼きを施した皆焼刃は目立って焼刃高く、大模様に乱れて烈しく乱れ込む帽子と併せて覇気に満ちている。地刃の保存も頗る良好である。
注)登録証には『刀』と表記され、鑑定証には『脇指』と表記されております。往時は打刀であったこと、および幕政時代に太刀拵に附されたことを勘案して、『小太刀』と表記させていただきました。

附)金梨子地丸に隅立四つ目紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵
佩表(拵全体写真刀装具拡大写真
佩裏(拵全体写真刀装具拡大写真
  • 総金具(兜金・猿手・縁・柏葉・責金・足金物・石突・太鼓金)丸に隅立四つ目紋散図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、金小縁、無銘
  • 鐔 刳込木瓜形、赤銅魚子地、金色絵耳
  • 大切羽 二枚、丸に隅立四つ目紋散図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、鋤下彫、四方猪目透、金小縁、無銘
  • 目貫 丸に隅立四つ目紋散図三双図、赤銅地、容彫
  • 柄 金襴包、古代紫太刀巻、同渡巻
参考文献:
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
本間順治・佐藤貫一『日本刀大鑑・古刀篇三』大塚工芸社、昭和四十四年
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期 美濃刀工の研究』株式会社里文出版、平成十八年