T122914(W3244)

脇指 銘 助良作

古刀 室町時代後期(大永頃/1521~) 三河
刃長40.7cm 反り 1.0cm 元幅 35.1mm 元重6.8mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造り庵棟。刃長一尺三寸四分と寸が延びて身幅広く、先反りつきふくら張る。重ねの厚い重厚な手待ち(419㌘はばき除く)(刀身拡大写真
彫物:表は鍬形、素剣に不動明王梵字の彫物、裏には棒樋に添樋を茎に掻き通す。
鍛肌:板目肌立ち、刃寄りおよび棟寄りは柾目流れる。
刃紋:沸出来の焼刃は刃区を短く互の目で焼き出し、大互の目を連ねて腰の括れた大房丁子を交え、焼刃さらに高く処々棟焼きに繋がり皆焼風となる。刃縁の沸厚くついて刃中は匂い深く充満し、互の目の太い沸足入り、乱れの谷には沸厚く凝り此所に砂流し・沸筋が頻りとかかり明るく冴えて華やぐ。
帽子:互の目乱れ込んで焼刃高く先小丸となり返り深く、小互の目・尖り刃を連ねた棟焼きを区まで焼き下げて皆焼風。
茎:生ぶ、目釘孔二個。刃上がり栗尻張る。大筋違の鑢目、棟肉平で此所にも大筋違の鑢がある。佩表目釘穴下方棟寄りにはやや小振りの鏨で『助良作』の三字銘がある。

 薬王寺派の刀工は中世の三河国(愛知県東部)、碧海郡矢作、岡崎の地に鞴を構えた。薬王寺刀工派の名称に因んだ薬王寺についても西本郷町に位置したとされるものの、現在までその位置の確定ができていない。
 同派は美濃国の『兼春』が室町初期応永頃(1394~1428)、薬王寺の地に移住して開いたと伝えられる。室町時代の三河国は多くの豪族・小領主が割拠する混沌とした勢力情勢下にあり、織田、今川の二大勢力狭間の干渉地に置かれ、徳川家康の支配までは不安定であった。
 薬王寺派の作風は三河の位置する地勢的状況より隣国の関、美濃千手院、伊勢の千子派、駿河の島田派や末相州等の影響をその作風に観取することができることから、各派鍛冶等の駐鎚や移住が想定されよう。また同派の『助長』は近江に移住して新刀石堂一派の祖となったという。
 『日本刀銘鑑』に拠ると、『助良』の名は、美濃西郡住、壽命の族との記載もあり、文明と永正の二工を挙げている。同時期の薬王寺派の『助良』は美濃同人の移住または同族の交流も覗うことができよう。
 さらに表題の『助良作』の段平脇指は舟底風の茎を呈し、烈しい乱れ刃を焼いて、洗練された彫物を施すなどの隣国の伊勢の千子派の村正や駿河の島田鍛冶の作風に見紛う出来で手持ち重厚かつ頗る健全で出来優れる。
金着一重はばき、白鞘(佐藤寒山鞘書
参考資料
本間薫山、石井昌国『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年
堀江登志実・近藤邦治、特別展図録『三河の刀工-薬王寺派を中心に』三河武士のやかた家康館 岡崎市、平成九年三月二十日
得能一男『美濃刀大鑑』、大塚工藝社、昭和五十年