G5618(W2784)

脇差 銘 前伯州信高入道

新刀 江戸時代前期(寛文二年~/1662~) 尾張
刃長37.0cm 反り0.5cm 元幅30.4mm 元重6.0mm
特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造り、庵棟。重ね厚く、寸延びて身幅広い。元先の幅差はさまで開かずに、やや浅めの反りがついてふくら張る勇壮たる体躯。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌詰んで総体柾がかり、湯走り状に地錵ついて柾目の地景はいる強靭な地鉄鍛。
刃紋:二つ・三つと互の目を連ねた腰刃を焼いて、焼刃の高い片大矢筈刃を湾れでつなぎ表裏の刃文がよく揃う。大きく打ち寄せる波濤の焼頭からは玉状の跳び焼きを交えて躍動する。刃縁には精良な錵が厚く積もり明るく冴え、刃中は深く柔らかな匂いを敷いて僅かに砂流しかかり、葉が浮かび錵匂の豊かな働きがある。
帽子:互の目を焼いて直調に中丸となる。所謂、地蔵風の焼刃は深く返り、中頃には僅かに棟焼がある。。
茎:生ぶ。鑢目勝手下がりに化粧。目釘孔弐個。茎尻は刃上り栗形。茎棟肉平。佩表に『前伯州信高入道』の七字銘がある。
 二代信高は、初代慶遊信高の嫡子として慶長八年、尾州清洲関鍛冶町に生まれた。河村伯耆という。同十五年名古屋城築城にともない名古屋関鍛冶町(現、名古屋市中区丸の内三丁目)に移住。寛永十年八月二十九日、三十一歳で伯耆守を受領した。尾張国初代藩主徳川義直の御用鍛冶に命じられ百石を受けている。寛文二年、六十歳で隠居「閑遊入道」と号した。隠居後は『伯耆守信高』のほか『前伯州信高入道』、『前伯州閑遊入道』、『前伯州山月信高入道』などと銘を切る。元禄二年九月二十七日没、享年八十七。
 三代信高、河村三之丞は寛永九年に生まれ、初銘を「信照」。寛文五年三月五日、三十四歳のときに伯耆守を受領して三代信高を襲名した。同年五月に尾張二代藩主徳川光友の命により尾張徳川家のお抱え鍛冶に任じられ扶持十人分を受けた。宝永四年八月二十日没、享年七十六。
 寛文から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められ。同藩の剣術指南役である柳生連也厳包の佩刀を鍛えた信高の刀は質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと大業物としての名声を世に知らしめた。父である閑遊入道信高と協力して鍛刀に励んでいる。歴代信高中、二代・三代合作の刀がもっとも出来が優れているといわれており、信高の伯耆守受領はこの代で終わる。
 伯耆守藤原信高の銘については二代・三代の銘振り・茎仕立てが近似していることから代別が困難ではあるものの、詳細に観ると銘の特徴として『守』の第三画は中央に向って角度付き鏨を運ぶこと、さらには『藤』の第三画は『月』の肩に向って長く斜めに切る、『信』の最終画はやや右下方に鏨を跳ねるなどの特徴は三代河村三之丞信高の切銘と考えられている。
 表題の雄々しい段平は、打刀を保管する添指であった。身幅が広くふくら張る威風かつ強靱な体躯は尾張武士委の大業物の貫禄を湛える。尾張藩の兵法指南役、柳生連也厳包所持の脇指 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』(桑名市博物館蔵)と作域が近似し資料的にも頗る貴重である。
檜垣鑢金着せ一重はばき、白鞘入
参考文献・資料:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月

脇指 銘 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』 (桑名市博物館蔵)