S2234(S5974)

刀 折返銘 飛騨守藤原氏房

新刀 桃山時代(天正二十年~寛永八年/1592~1631) 尾張
刃長71.7cm 反り1.5cm 元幅30.0mm 先幅20.7mm 重ね6.7mm
保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造り、庵棟。鎬高く棟に向かい鎬地を削ぐ強靭な造り込み。磨上げながらも、二尺三寸七分弱と寸が延び、やや浅めの反りが付き中鋒に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌を主調に、鎬地柾目流れ、地錵が厚くついて板目織りなす地景が湧き出して強靭なる地鉄鍛え。
刃紋:錵本位の湾れ刃を主調に互の目を配する。やや粗めの錵が付き、砂流しかかり、佩裏物打ちの互の目焼頭には錵崩れて跳び焼きがある。
帽子:焼き高く互の目乱れ込んで小丸に突き上げ、返りを深く焼き下げる。
中心:四寸程の磨上げ。生ぶ鑢目は大筋違、磨上げ部の鑢目は切。目釘孔三個、佩裏には控え目釘孔がある。棟肉平。佩表の第三目釘孔下方の鎬筋上には大振り雄壮な鏨運びで『飛騨守藤』、以下裏に折り返して『原氏房』の長銘がある。
 尾張三作の優工、『飛騨守藤原氏房』の打刀。尾張上級藩士の差し料として伝承された。元姿は二尺八寸弱に及ぶ長大な刀で騎馬戦に具えたものあったが、幕政時代に四寸程にわたる磨上げを経た。今尚、二尺三寸七分弱と寸が延びて、鎬高く強靭な板目肌に湾れに互の目を配する作域は桃山時代に流布した造り込みを明示して出来優れる。
 新刀初代『飛騨守氏房』は『若狭守氏房』の子。永禄十年(1567)美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父の『若狭守氏房』が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男、織田信孝の小姓として出仕して父と共に信長に仕えた。
 同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父『若狭守氏房』について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。
 天正二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)、長男の伊勢千代『備前守氏房』と次男の京三郎『若狭守氏善』を伴い、清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住した。
 寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』
時代一重はばき、白鞘入
参考資料:
岩田 與『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会 昭和五十九年