K53909(T5005)

短刀 銘 肥後同田貫宗広 万延元年閏三月日

新々刀 江戸時代末期 (万延元年/1860) 肥後
刃長27.4cm 反り0.3cm 元幅25.8mm 元重6.8mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造、低い庵棟。九寸強と寸がのびる。元先の重ね厚く、僅かに中間反りがついてフクラ枯れ心。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌よく錬れて詰み、地沸厚く微塵について地に映りがたち、板目の地景入る強靭な地鉄。
刃紋:焼刃広い腰開きの複式互の目・尖り刃交える。乱れの谷に沸が厚く凝り、太い沸足が刃先に放射して明るく冴える。
帽子:焼刃広く強く、表は乱れ込んで先中丸。裏は同じく互の目乱れ込み先尖り小丸に返る。
茎:生ぶ、目釘孔一個。刃長に比して茎長く(12.2cm)、刃上がり栗尻に結ぶ。鑢目は大筋違いに化粧、棟小肉ついて此所にも大筋違の鑢目がある。指表の鎬地寄りにはやや小振りで太く強い鏨で『肥後同田貫宗広』の長銘、裏には『万延元年閏三月日』(注2)の年紀が刻されている。

 『同田貫宗広』は同田貫上野介九代(注1)の『小山大和守政勝』の子。名は小山太郎。玉名郡高瀬町に住した延寿鍛冶の末葉で、通称を『寿太郎』(または『延寿太郎』)という。
同田貫上野介十代の嫡孫と称し、新々刀期、肥後刀工中の筆頭鍛冶。肥後細川藩の六千石重臣『沼田有宗』の門人で師の『有宗』にしたがい江戸に出府し、巨匠の水心子正秀に学んで備前伝をはじめ、各伝法を修得した。本伝の直刃だけでなく備前伝の互の目・丁子乱れに優れた作品を遺している。
 『同田貫宗広』は九州肥後熊本の新々刀期を代表する刀工の一人で、繁根木八幡宮に奉納されている刀(熊本県指定重要文化財)はこの宗広の作。
 天保元年(1830)~明治四年(1871)にかけての年紀作があり、明治五年(1872)歿という。
 表題の短刀は万延元年(1860)閏月三月の打ち卸しの稀有な作刀。太陰暦を用いていたことから、万延元年には幕府天文方の決定により三月の後に「閏三月」を設けて一年を十三ヶ月とすることで、暦と季節の相違を調整した(注2)
金着一重はばき、白鞘入
参考文献:
本間薫山・石井昌國 『日本刀銘鑑』 雄山閣、昭和五十年

(注1)『同田貫』は室町時代の末期、肥後(現在の熊本県)の菊池同田貫の地に起こった刀工群。創始者の『同田貫上野介正国』は肥後国熊本城主の加藤清正の抱え刀工となり、朝鮮出兵にも従軍して多くの利刀を鍛えた。反りが浅く無骨な姿に、直刃・湾れ刃を焼く作風は『兜割正国』と賞揚された。剛健にして折れず曲がらず良く切れる実用本位に鍛えられたところに同派の特徴があるといえる。
加藤家の改易、細川忠利の入国後はその鍛刀技術は一時失われたものの、これを再興したのが『上野介正国』から数えて九代目になる『正勝』で、同工は薩州正幸より鍛刀の術を習得し、十代の実子『宗広』、十一代の『宗春』に伝承して新々刀期の『同田貫』を復興させた。
(注2)現在、日本をはじめとする世界の多くの国では、地球が太陽の周りを1周する期間を1年とする太陽暦を用いています。太陽暦では、1年の長さは365日を基本とし、4年に1度、1年が366日となる閏年を設けることで、暦と実際の季節の間にずれが生じないように修正が加えられている。
 飛鳥時代から明治時代初期までのおよそ1300年間の日本では、月の満ち欠けの周期を1か月とする太陰暦を基本としつつ、閏月を設けて実際の季節とのずれを修正する太陰太陽暦が用いられていた。これは、太陰暦での1年はおよそ354日で、太陽暦の1年と比べて11日ほど短くなることから、3年でおよそ1か月のずれが生じてしまうため、およそ3年に1回、閏月を設けて1年を13か月とすることで、実際の季節とのずれを修正するというもの。閏月は19年で7回のペースで設けられ、閏月を設けた年のことを閏年と呼びました。現在、「旧暦」と呼ばれる暦は、この太陰太陽暦のことを指している。江戸時代には、毎年の暦は幕府の寺社奉行のもとに置かれた天文方が決定し、農作業を実施する日取りを決める上で参考となる暦は大きな関心事であった。