『明珍家』は甲冑師を生業とした一門で、鎌倉時代から江戸時代までの長期にわたり繁栄した。天下泰平の江戸時代中期になると江戸、仙台、水戸、尾張、越前、土佐、安芸、豊後や肥後などの各城下町に活躍の場を広げて甲冑・刀装具の作品を残している。
明珍宗義は本姓を野町という。宗栄の子で山内家の藩工として親子で仕えた。同工は藩命により江戸に出て赤坂忠則に師事し或は肥後金工から技術指導を受けて尚武の気風に粋で斬新な意匠を融合して武人の好尚に乗りその名を全国に知らしめた。
梅樹を図案化した地透彫の鉄地はよく鍛えられて黒い光彩を放つ。梅花と蕾を丁寧な毛彫りで表現している。肉厚で豊満な丸耳に枝先が接する部分は繊細である様は肥後金工鐔の伝統を彷彿させる。肥後金工派の作域を超越して金象眼を施し、斬新な趣向を採り入れた独自の作風を創始している。嘉永三年・嘉永七年の年紀があるものや七十六歳の行年を添えた鐔がある。
江戸時代後期(嘉永頃)、土佐高知住