Tuba2796a

芦雁透図鐔

銘 於三州西尾 国友正幸作

丸形、鉄鍛目地、地透、毛彫、丸耳
縦 76.3mm 横 76.7mm 重ね 5.4mm (切羽台) 5.7mm (耳)

岡本保和『尾張と三河の鐔工』昭和五十八年所載

特別保存刀装具鑑定書

 江州坂田郡国友村に鉄砲鍛冶が出自したのは天文十三年(1544)と云われている。日本人が鉄砲、火縄銃を手にするのは種子島にポルトガル人が流れついたのは天文十二年。故に翌年には日本で鉄砲の製作が始まったことになる。江戸時代になると松平乗邑に仕えた国友は松平氏の転封にしたがって、亀山、淀、佐倉、山形、西尾へと移住していった。
 西尾における国友鐔は『正命』(明和頃)、『正幸』(安永~寛政頃)、『正重』(享和~文化頃)、『重貞』(天保頃)の各代である。『正命』、『正幸』はおいては『さはり象嵌』と呼ばれる流し込み象嵌の技法がみられる。

 この鍔は西尾国友二代 『正幸』の作。丸形の鉄鍛目地は僅かに中低の肉置きが看取され、耳への太い繋ぎは尾張鐔の造形を保ちながら、左右非対称な芦雁の画題は江戸の粋で斬新な意匠を採り入れており赤坂鐔の影響を看取することができる。柾目鍛明瞭に重ね厚く切羽台にかけて僅かに中低となる肉置きは力強い。三河尾張両国の出身者が主導権を把握していた当時は、鉄味良好な尾張透の手法に粋で斬新な意匠を融合して武人の好尚に乗り赤坂鐔は流行した。

 『正幸』は本職鉄砲師であり、鐔工として作域の広い作者で多彩な作風を観る。妻は初代『正命』の娘、はじめ国友勇右衛門、のち国友勘五右衛門と改めた。享和元年六月十九日歿

江戸時代中期、安永~寛政頃(1772~00)

この鐔は岡本保和『尾張と三河の鐔工』昭和五十八年所載品