寛永九年(1675)細川忠興の転封に伴い、志水甚吾派の創始者である仁兵衛は平田彦三の甥とともに肥後八代に来住した。幾多の合戦に従軍した細川忠興の武具への造詣指導によって林、平田、西垣、志水の四派を中心とした肥後金工は肥後熊本で幕末まで発展した。
甚五は個性的な迫力ある作品を遺し最も個性的で異色の存在であり、その大胆で野趣に富んだ作風は他に類がない。
この鐔は常より大きく、木瓜形の造り込みは甚吾の得意とするところである。重ね厚く、均整採れた左右の櫃孔は大きく大胆に穿かれて流水渦巻きを想わせる腕抜孔の構成は秀逸。黒々とした地鉄は闇夜を連想させ、表面は鍛練した鎚目痕跡を意図して残し表面を平滑に仕上げて焼き手を施した漆黒の鉄地は土手耳を鋤残している。
表には銀で三ヶ月を、金布目象嵌で雁金と流水渦巻を配し、裏側は星々を金玉象嵌で散りばめ、赤銅で雁金を象嵌している。痕跡を残した両櫃孔周辺には破れ金象眼の線を刻み込んで構図を引き締めている。
漆黒鉄色の槌目地をもって深淵なる月夜の空気感を表現し、雁金が水面に飛翔する絶妙な構図は甚吾の豊かな感性と個性を感じ取ることができる。
江戸時代中期
細川忠興は教養文化人でもあり、千利休に師事して利休に最も気に入られていた弟子で利休七哲の一人に数えられる