C19949(W8569)

脇指 銘 若狭守氏房

古刀 室町時代末期(元亀・天正頃/1570~90) 尾張
刃長41.8cm 反り1.0cm 元幅32.7mm 元重6.5mm

特別保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造、庵棟、重ね尋常に寸のびて身幅広く、やや浅めの先反りがつき、元先の幅差さまに開かずふくらの張った威風堂々たる姿をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌に杢目を交え、棟寄りは総体柾ごころに流れる。平地には地錵が厚くついて太い地景がうねり頗る強靱な鍛肌をしている。
刃紋:小沸出来の湾れに大互の目に尖刃、腰括れの丁子刃を交えて表裏の刃は揃いごころ。刃縁はよく沸づいて二重刃を交えるところがあり、刃中には匂深く満ち、ここに砂流し・金線を交えて明るく冴える。
帽子:乱れ込んで地蔵風となり、火炎風に尖り深く返って棟焼に繋がる。
中心:生ぶ。総体にやや小振り。茎尻が細くなり刃上り栗尻に結ぶ。刃側にやや小肉がつき、棟肉は平。勝手下がりの鑢目。茎孔弐個。表には任官銘の『若狭守』を小さく、刀工銘『氏房』を大きく切る。
 若狭守氏房は天文三年(1534)、関七流中の善定家である清左衛門兼房の三男として岐阜に生まれた。姓は河村、名を京三郎と称し、初銘を「兼房」という。弘治二年(1556)、長兄の岩見守国房より善定家の惣領を譲られて嫡子となり名を清左衛門と改め、美濃国関に移住している。永禄十三年(1570)四月十九日、三十七歳の時に清左衛門少尉に任ぜられ「氏房」と改め、三日後の二十二日には若狭守を受領している。
 尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となった。天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚。同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後は岐阜に帰郷して織田信孝の扶持を受け、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持を受けて鍛刀に励んだ。
 同十八年(1590)五月十一日没、享年五十七。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前若州大守良屋宗善居士』。同工は相模守政常、伯耆守信高と並ぶ尾張三優作の一角を占め、上々作、業物として名高い。
 熱田神宮には「氏房」に改銘する前の代表作で愛知県の指定文化財、太刀 銘 「河村京三郎 濃州関住兼房作」、刀身に切付銘で「永禄十一年二月吉日 奉寄進熱田太神宮 兼房作」がある。また、織田信長の安土城築城後に駐鎚した脇指 銘 「若狭守氏房 江州安土住人」がある。
 本作は太刀の添指しとして腰刀の様式で、実戦に主眼を於いた迫力ある出来映えを明示し、寸がのびて身幅広く、重ねを控えた剣形は素早い抜刀裁断に適した造り込み。硬軟の鉄を鍛えた杢目交じりの大板目の地鉄は鮮明な地景が表出して迫力がある。茎の鑢目、銘字の鏨も鮮明で保存状態も良好。『若狭守』をやや小さく、『氏房』を大きく切る同工壮年期の典型的な銘振りをしており若狭守氏房の畢生作である。

金着せ二重はばき、白鞘入。
参考::『刀 銘 若狭守氏房作 元亀二年八月日
参考文献:『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日