K6997(S2226) 刀 銘 筑州筥﨑宮於神前信国作(重包) 享保二年八月日 特別保存刀剣
新刀 江戸時代中期(享保二年/1717) 筑前
刃長 62.6cm 反り 2.0cm 元幅 28.1mm 先幅 17.8mm 元厚 6.6mm
剣形:鎬造り、庵棟。鎬高く平肉ついた体躯は量感豊かに身幅、重ねともに尋常に元先の幅差頃合について腰反りがつく均整とれた造り込み。(刀身全体写真
鍛肌:板目肌に杢交え、地沸が厚くついて地景入りやや肌立ち強靭たる地鉄鍛。
刃文:元を浅い湾れで焼きだして小互の目に、互の目・逆がかった丁子刃に尖り刃を交えて複合して変化に富む。沸匂深く、刃縁にはやや粗めの沸がついて中頃の刃縁の沸さらに厚くバサけて地に溢れ部分飛び焼きとなる。刃中の沸厚くついて匂満ちて葉浮かび、沸足放射して刃縁には金線・砂流しが走る。地刃共に強く冴えて豊かな沸の働きがある。
帽子:焼き高く強く乱れ込んで飛び焼きを交え小丸に返る。
中心:生ぶ。目釘穴壱個。茎の刃方は僅か舟形風に肉を卸して先を細めて入山形。茎にも頃合の反りがつく。鑢目は勝手下がり。棟小肉ついてここには大筋違の鑢目。茎の錆色良好に保存状態優れ、佩表の鎬筋上には大振り細鏨の長銘『筑州筥﨑宮於神前信国作』の長銘。裏には二字分上がって『享保二年八月日』の年紀がある。
 江戸時代中期の筑前を代表する信国重包は、南北朝時代に山城より筑前に移住した信国の正系で信国吉包の子。俗称助左衛門といい、黒田家藩工として福岡鍛冶町に住した。のち藩命により筥﨑宮辺に鞴を移して工銘を『重包』に改めた。
 享保六年一月に八代将軍吉宗の召により江戸芝浜御殿にて鍛刀、薩摩の正清、安代や紀州南紀重国と共に最優秀の栄誉を賜り、茎に一葉葵紋を茎に切ることを許された優工である。帰郷後に工銘を『正包』に改めた。
 信国重包は、同じく黒田藩工の備前伝筑前石堂派『守次』と対峙し、相州伝を精鍛した名手として高名である。五十万石を有する筑前黒田家は筑前信国派および同石堂派を黒田藩士のみの御用鍛冶として独占し、藩外への販売を許さなかったという。精鍛数は肥前刀に遠く及ばず現存慧眼する機会は稀である。筑前信国一門の作刀の中でも重包は稀有で、稀に慧眼する作刀は『筑前住源信国重包』や『筑前住源信国正包』などと銘を運ぶものが多い。享保十三年(1728)十二月十日歿、行年五十六。
 享保二年紀のこの刀は、大小の大として信国重包円熟の四十五歳時に精鍛された。『筥﨑宮於神前』と刻されていることから神前打奉納刀であり個銘『重包』を謹んでいる。古雅な太刀姿は遠祖左衛門尉信国を範としている。錵匂ともに殊の外深く、特に中頃から物打ちにかけての錵の華はとりわけ明るい閃光を放ち、錵が地に溢れて地錵の華を咲かせる様相は同工の特徴を明示している。茎の錆味良好に鑢目・隠鏨は頗る鮮明。表裏に刻された銘文の鏨枕が明瞭な完存の優品。信国重包の江戸芝浜御殿での御前打の推挙を得たことを首肯する同工屈指の優作である。
時代金着二重はばき(打刻跡あり)、白鞘入
(注)三代八幡宮のひとつ筥﨑宮は長政以下黒田家歴代藩主が崇拝してきた。
 
刀 銘 筑州筥﨑宮於神前信国作(重包) 享保二年八月日
 刀 銘 筑州筥﨑宮於神前信国作(重包) 享保二年八月日
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