K44018(Y1410) 平三角大身槍 銘 九州肥後同田貫又八作
附)黒漆塗古鞘・無文山銅金具黒漆塗柄
保存刀剣
桃山時代(文禄・慶長頃/1592~1614) 肥後
穂長 73.8cm 茎長 83.5cm 元幅 33.1mm 首重 18.5mm
剣形:平三角直槍、首五角。穂長殊の外長く、生ぶ茎を有する大身槍。平地には太樋の彫り物があり、此所に朱塗りがある。(刀身拡大写真
地鉄:地鉄はよく錬れた板目肌に流れる肌を交えて総体によくつみ、裏平地上半に竪割れ状の鍛接跡がある。
刃文:下半は匂い口締まりごころに直ぐ調子に浅く湾れ、互の目、小互の目・丁子刃を連ねて交じえ、中頃より強く沸つき大乱れとなる。さらに上半は湯走り状の飛び焼きかかり、皆焼状となる。刃縁には厚く沸がついて刃中匂い深く、太い錵足が入り、葉浮かび、金筋や砂流しが入るなどの覇気に富んだ焼刃をしている。
帽子:よく錵づいて乱れ込んでここに金筋入り、先小丸。
茎:生ぶ。第一目釘孔上方は「切」、下方は「筋違」からセンスキ状の「大筋違」の鑢目がある。目くぎ孔二個、茎尻は切。鎬造表の第一目釘孔上方に鮮明な『九州肥後同田貫又八作』の長銘がある。
 肥後国熊本は中世より踏鞴製鉄の地として栄え、鎌倉時代末期には蒙古襲来に備え、山城より来派の鍛冶『来国村』を招聘して鍛刀をさせていた。国村は『延寿太郎』と称したことから延寿派の始祖として名高い。同国は南朝の忠臣である豪族・菊池氏の本拠地として栄えたが南朝の衰退とともに延寿鍛冶は四散して野鍛冶となっていた。
 同田貫は肥後国「熊本」の産、古刀末期に菊池よりの玉名へと移住した菊池延寿鍛冶の後裔である。天正十六年(1588)、加藤清正が肥後に入国して北半を領するとともに延寿鍛冶の後裔を召抱え、熊本城の御城備刀を作らせた。これらが肥後同田貫鍛冶一門であり、「折れず曲がらず同田貫」と歌われ、猛勇な清正公の気風を反映して無骨で野趣溢れ、物切れ優秀な実用的価値の高い刀を鍛刀して乱世戦国の世に全盛期を迎えた。
 代表工には清国・正国両兄弟がおり、清正公より一字づつ賜り兄の「国勝」は「清国」に、弟の上野介「信賀」は「正国」に改名したと伝えられる。他に「兵部」・「右衛門」・「又八」などがおり、長銘物の太刀や薙刀・槍は献上刀か高位の武将の注文打のため入念作が見受けられ「九州肥後同田貫上野介」、「九州肥後同田貫兵部」、「九州肥後同田貫又八」などの銘を入れたものの、脇差には唯番号だけを入れることに定まっていた。これらの事由から美術的に優れたものや在銘品は限られ、打ち卸しの完存状態は稀有である。文禄・慶長の『朝鮮の役』やその後の『関ヶ原の合戦』、『大阪夏・冬の陣』での実用武器として消耗が激しいものが大半で、また同時代には、群雄割拠、下克上の実力主義の世界に生きた猛者たちの剛健な気質を反映してか、野戦用として本作のような大身槍が散見されるのも特徴である。同田貫一門は加藤家が改易となり、細川忠利の入国後は衰亡してその鍛刀技術も一時失われてしまっている。
 表題の一口は平三角直槍、穂長二尺四寸三分半(73.8cm)、元幅一寸一分弱(33.1mm)、茎長二尺七寸五分半(83.5cm)の威風堂々たる大身槍である。表は鎬造り、裏は平造りで太樋があり此所に朱漆が施されている。生ぶ茎は第一目釘孔上方に「切」下方は「筋違い」からセンスキ状の「大筋違い」の鑢目がある。鍛えは板目が柾に流れてよくつみ、刃文は互の目に丁子交じり、沸つき砂流しかかり、上半は皆焼風となり帽子は乱れ、強く沸づき先は小丸。沸主調の焼刃が明瞭に冴えた見事な出来映え、地・刃ともに上出来で健全体躯を留めた同田貫又八(菊川又八右衛門)の名槍である。強靱な穂先を有するこの大身槍には簡素な造り込みの槍鞘に、強靱な大身槍の穂先を保持すべく重厚な柄が附されている。古研ぎのため処々にヒケ疵があります。(白鞘は付属しません)
参考文献 : 沼田鎌次 『新版日本の名槍』 雄山閣 昭和四十九年
平三角大身槍 銘 九州肥後同田貫又八作
平三角大身槍 銘 九州肥後同田貫又八作
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