G25919(T3190) 短刀 銘 兼光 保存刀剣
古刀 室町時代後期 (永正頃/~1520)美濃
刃長 29.8cm 反り 0.2cm 元幅 29.3cm 元重 6.0mm
剣形:平造り、庵棟。身幅広く、寸延びて僅かに反りがついてフクラ張りごころの無骨な造り込み(刀身拡大写真
鍛肌:板目の肌目が起ち、刃・棟側流れて大肌交える。鉄色青黒く、白けごころの地斑映りが明瞭に立ち太い地景が躍動する。
刃紋:互の目を主調に箱刃・逆がかった尖り刃を交える。明るい小沸に匂いを敷いた焼刃は乱れの谷に沸が凝り、匂で明るく冴えた刃中には太い沸足が刃先に射して葉が浮かび、砂流しかかる。
帽子:湾れて先小丸に突き上げ尖り、砂流しかかり返りやや深く堅く留まる。
茎:生ぶの舟底形の茎。目釘穴一個、刃上がり栗尻張る。檜垣鑢。棟肉ついてここには大筋違の鑢目がある。大振りの鏨で『兼光』の二字銘を刻している。

 美濃伝は「五箇伝」の後発として、美濃を中心として興隆した流派。鎌倉時代末期から南北朝期(1333~92)にかけて、『志津三郎兼氏』が大和国から多芸郡志津(養老郡南濃町志津)へ、同時期に『金重』が越前国から関へと移住して来た。さらに越前から『国長・国行・為継』らが赤坂(大垣市赤坂町)へと移住するなど次々と諸国から移住して来て、美濃国の刀鍛冶は隆盛期を迎えるようになる。
 『日本刀銘鑑』によると永和(1375~78)の頃、大和国からは『兼光』(右衛門尉・金行の娘婿、手掻『包永』の三男で初銘『包光』という)が、一門鍛冶である『兼明・兼弘』らを伴って関の地に移住。『関鍛冶の祖鍛冶』といわれている。
 乱世に時代に関の地に移住した大和鍛冶らは本格的に活動をはじめ、『兼光』を祖とする関の刀鍛冶らは鍛冶仲間の自治組織である「鍛冶座」を結成し、刀祖神を奈良の春日大社から、関の春日神社(南春日町)に分祀し、同社を関刀鍛冶の本拠地として活動し最盛期を迎え、「関七流」と呼称される、善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の七派を形成して技を競った。
 『室町期美濃刀工の研究』によると、室町期のもっとも古い年紀作は『兼光 応永元年八月日』の短刀がある。南北朝期に関の地に移住した『兼光』は鍛冶座を創始した関鍛冶の金字塔である。以降、善定派に属して室町時代を通じて数代続いた。
 表題の『兼光』は文明から永正(1469~1520)頃を大凡の活躍期とされ、善定『兼吉』孫・『兼信』子・清次郎・法名良敬という。同工は関鍛冶の尾張移動の早期例として知られ、永正頃(1504~)に美濃関から尾張津島(愛知県津島市兼平町)に移住したと云われている。

下貝銀着・上貝金鍍金二重はばき、白鞘入

(注)関鍛冶は『金重』・『兼光』・『兼永』達を祖鍛冶とし、元祖を鎌倉末期、永徳頃(1381)の『元重』を元祖としている。
参考文献:
杉浦良幸『美濃刀工銘鑑』里文出版 2008
鈴木卓夫・杉浦良幸『室町期美濃刀工の研究』里文出版 2006
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣 1975
 
短刀 銘 兼光
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