A68383(W2785)

脇指 銘 飛騨守氏房

新刀 桃山時代(天正二十年~寛永八年/1592~1631) 尾張
刃長30.8cm 反り0.2cm 元幅28.9mm 重ね5.6mm

保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造り、庵棟。身幅広く、寸が延びてふくらが張りほぼ無反りの雄壮な姿。表には腰樋、裏には護摩箸の彫物がある。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌を主調に棟寄りに流れる肌を交え、地錵が厚くついて地景が湧き出して美しく、かつ頗る強い肌合いを呈している。
刃紋:錵本位の湾れ刃を主調に互の目を配する。やや粗めの錵が付き、ふくら付近の互の目は錵崩れて湯走りごころ。
帽子:浅くのたれ、小丸に突き上げ、返りを深く焼く。
中心:生ぶ。茎尻。鑢目は大筋違。茎孔弐個。棟肉平。刃区、棟区ともに深い。佩表の第一目釘孔下方平地には大振り雄壮な鏨運びで『飛騨守氏房』の銘がある。

 新刀初代『飛騨守氏房』は『若狭守氏房』の子。永禄十年(1567)美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父の『若狭守氏房』が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男、織田信孝の小姓として出仕して父と共に信長に仕えた。
 同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父『若狭守氏房』について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。
 天正二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)、長男の伊勢千代『備前守氏房』と次男の京三郎『若狭守氏善』を伴い、清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住した。
 寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』
 表題の作刀は一尺強の大振り平造りの寸延び短刀。腰樋と護摩箸の彫物を茎に掻き流し湾れに互の目を配する作域は、相州貞宗を想起させる造り込み。桃山時代に流布した造り込みを明示して出来優れ、尾張上級藩士の腰刀として伝承された優品である。
時代二重尾張はばき、白鞘入
参考資料:
岩田 與『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会 昭和五十九年