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T310840(S6011)

刀 銘 備前守藤原氏房

新刀 江戸時代初期(元和七年~寛永十一年/1621~34) 尾張
刃長 75.7cm 反り 1.7cm 元幅 31.0mm 先幅 21.7mm 元重 7.5mm

特別保存刀剣鑑定書

剣形:鎬造り、庵棟。寸が延び、元身幅広く重ね厚くついて手持ち重厚に、頃合の中間反りがついて中鋒に結ぶ寛永頃の造り込み。(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌処々流れ、地錵が厚くついて地景が湧く強靭な地鉄鍛。
刃紋:錵出来の広直刃を主調に、僅かに湾れて処々節ごころに小乱れ、小互の目を交えて頻りと足入る。刃縁に小沸厚く積もり、刃中葉浮かんで明るい。
帽子:直ぐに焼き高く一枚風となり、棟深く焼き下げる。。
中心:生ぶ。鑢目は勝手下がり。刃区深く、茎の刃側をしだいに削いで舟底風に仕立て栗尻に結ぶ。目釘孔一個。佩表の棟寄りには大振りの鏨で『備前守藤原氏房』の長銘がある。

 『備前守氏房』は二代『飛騨守氏房』の嫡子、文禄四年(1595)清洲に生まれた。幼名を伊勢千代、のちに長次郎を名乗った。元和七年(1621)八月二十二日、二十七歳で備前守を任官し、『備前守藤原氏房』、『備前守氏房』と銘を切り、徳川義直の抱え工として活躍。
 寛永八年正月(1631)、三十七歳で父『飛騨守氏房』より家督を譲り受けて三代目『備前守氏房』を襲名、同十一年(1634)、四十歳の春に隠居して以降は『備前守氏房入道』と銘を切り、家督を実子の三九郎、四代『飛騨守氏房』に譲っている。寛文六年丙午十月二十五日没、享年七十二。

 この刀は寛永八年~十一年(1621~1634)に精鍛された『備前守氏房』の意欲作。二尺五寸と寸が延び、重ね厚く適度な反りがついて中鋒の、力感漲りながらも洗練味のある造り込みは、所謂寛永頃に流布した体躯。地鉄板目に柾交え、地沸微塵について地景縦横に入って肌目起ち強靭なる鍛肌。焼刃は小沸が厚く積もり刃縁きっぱりと明るく小の互の目足が盛んに入り、刃中葉浮かび、匂いの粒子が充満して冷たく澄む。焼きの深い帽子は一枚風となり棟に深く返る様は、所謂古作『郷義弘』に私淑した作風を明示。茎の保存状態は良好で錆色美しい。茎は拵の柄形に配慮して先細く仕立てられた尾張武士好みの刀。
 銘は刀や脇指の場合、目釘孔の下から銘を切り始めるものが多く、本作の如くのびのびとした見事な鏨使いである。本作のように、藤原氏房の『原』の四画目が二画目に突きだしたものは父『飛騨守藤原氏房』晩年期の作にも多く見られる。

銀着せ一重はばき、白鞘入。

(注)新刀初代『飛騨守氏房』は『若狭守氏房』の子。永禄十年(1567)、美濃国関に生れ、幼名を河村伊勢千代と称した。のちに平十郎と改める。父の『若狭守氏房』が尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)、信長に従い近江国安土城下で駐鎚したのに伴い、信長の三男、織田信孝の小姓として出仕して父と共に織田信長に仕えた。
同十年(1582)六月二十一日、本能寺の変で信長自害の後、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持(父若狭守三十貫文・伊勢千代百貫文)を受け、同十六年(1588)から清洲城下で父『若狭守氏房』について鍛刀を始めている。同十八年(1590)五月十一日、父の没後は一門の同姓の叔父、初代信高に師事して鍛刀を学んだ。
天正二十(1592)年五月十一日、二十六歳で『飛騨守』を受領し『飛騨守氏房』を襲名している。慶長十五年(1610)名古屋城築城とともに同十六年(1611)、長男の伊勢千代『備前守氏房』と次男の京三郎『若狭守氏善』を伴い、清洲から名古屋鍛冶町(現在の中区丸の内三丁目あたり)に移住した。寛永八年(1631)正月、家督を嫡子『備前守氏房』に譲り隠居。同年十月二十七日没。享年六十五。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前飛州大守無参善功居士』
参考資料:岩田 與『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会 昭和五十九年