I13469(S2200)

刀 銘 肥後大掾貞国 附)黒漆塗鮫研出鞘打刀拵

新刀 桃山時代(慶長頃/1596~) 越前
刃長 70.0cm 反り 1.6cm 元幅 30.5mm 先幅 21.4mm 元厚 6.0mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒漆塗鮫研出鞘打刀拵

剣形:鎬造、庵棟。身幅広く浅い反りがついて元先の幅差つかず中峰のびる慶長新刀姿。(刀身拡大写真
鍛肌:板目鍛えの地鉄は青黒く冴えてよく錬れ、処々に流れる肌を配して地沸厚くついて地景はいる。
刃紋:広直刃ゆったりと湾れ、うちのけ交えて小互の目を連ねる。刃中互の目の足よくはいり、葉浮かぶ。
帽子:湾れて中丸に返る。
茎:生ぶ、やや長めの茎は僅かに反りがつき、大きく穿かれた目釘孔一個。鑢目はやや浅めの角度の筋違いにはじまり、しだいに急角度となり剣形の茎尻に向かい大筋違になる。棟小肉つき筋違の鑢目がある。鎬筋上には大振りの長銘『肥後大掾貞国』がある。

 『肥後大掾貞国』は近江国坂田郡下坂の産。天正年間に『肥後大掾』を任官受領したという(注)
 天正十三年(1586)の天正地震による琵琶湖畔長浜城下の甚大な被害を経て、文禄・慶長初年頃までに同門下坂の康継等とともに結城秀康の招聘に応じて越前福井に移住し鍛刀に励んだ。
 同工には慶長十四年紀(1609)の作刀があり、本間薫山誌によると『一説に中曽祢虎徹の師というが、虎徹は明暦二年(1656)の作刀が最も古く年代的に整合しない。また初代康継同様に肥後大掾を受領しているために同人説もあるが、貞国に一日の長があるようで貞国はむしろ康継の先輩であろう』と述べている。脇指一口が重要美術品に指定されている。
 平造りや切刃造の脇指や短刀があり、記内彫と鑑する意匠濃厚な彫物を慧眼することがあるが、鎬造り打刀は稀有である。同工の茎仕立てはやや長めで僅かに反りがつき、棟には小肉がつく。筋違の鑢目は茎尻にかけて次第に急角度となり大筋違となり剣形に結ぶ仕立ては康継同様である。
 この打刀は地鉄・刃文の調子、往々にして古刀に見紛うところがあり、慶長新刀期の雄姿を有する体躯は手持ち重厚に元先の身幅広く重ねが厚い肉置きを有しており、桃山期、慶長年間に活躍した『肥後大掾貞国』の本領が発揮された白眉の一刀である。

附)黒出塗鮫研出鞘打刀拵全体写真刀装具各部写真
  • 縁:薄菊竜胆に鈴虫図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、銘 東水軒元常(花押)
  • 頭:唐木研出
  • 目貫:三茄子図、赤銅容彫、金色絵
  • 鐔:薪束に三茄子図、鉄地、鋤彫、陰透 銘:正阿弥 盛国
  • 柄:白鮫着、生成色常組糸諸撮菱巻
金着せ二重はばき、白鞘付属 (佐藤寒山鞘書)
(注)元亀四年(1573)、15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追放され、同天正元年(1573)八月、信長、一乗谷の戦いで朝倉氏を、小谷城の戦いで浅井氏を滅ぼす。天正十年(1582)の本能寺の変を経て、同十八年(1591)豊臣秀吉による小田原城陥落天下統一となった。
参考文献:
佐藤貫一『康継大鑑』大塚工藝社 昭和三十五年十一月二十三日
本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年