O92109(S1524)

刀 無銘 延寿 附)黒漆螺旋刻鞘打刀拵

古刀 鎌倉時代後期(正中頃/1324~) 肥後
刃長69.7cm 反り1.5cm 元幅26.8mm 先幅16.7mm 元重6.4mm

特別保存刀剣鑑定書

附)黒漆螺旋刻鞘打刀拵

剣形:鎬造り、大磨上無銘。磨上げながらも浅めの中間反りがついて、元先の幅差がつき中鋒やや詰まりごころの古雅な姿。(刀身拡大写真
彫物:表には素剣、裏には梵字に護摩箸の彫物がある。
鍛肌:潤いのある小板目肌よく錬れて詰み梨子地肌となり、刃寄りは肌目やや流れごころとなる。細やかな地錵微塵について織りなす地景が精細に入る美しい地鉄。
刃紋:中直刃に僅かに小乱れ鼠足を交え、総体に匂口明るく締まり鮮やかに冴える。
帽子:直ぐに中丸に返る。
中心:大磨上無銘。茎尻は切。鑢目は浅い勝手下り、目釘孔二個。
 肥後国延寿派は大和国尻懸、弘村を始祖としているが、その子国村が肥後菊池郡隈府(現熊本県菊池市)に来住し、事実上の祖である。国村ははじめ大和より京都にでて来国行に学び、女婿となったという。菊池氏の要請に応え肥後に移住し延寿派を創設、南北朝末期までのおおよそ百年間に国吉・国時・国泰・国安・国資・国信・国清らの名工を輩出した一派である。代々皇室に忠勤を励んで京都との文化交流に熱心であった菊池氏とその盛衰を共にした勤王鍛冶として知られている。
 鎌倉時代から南北朝時代までの作品は旧来は『古延寿』と呼称しており、山城伝風上品な姿格好をして来国俊や来国光の優美な作域を蹈襲しているものが多い。地肌はよく錬れて潤いある小板目・梨子地肌を基調としながら、来派と比べると鍛えに流れ柾を交えて刃寄りに『棒映り』が立ち、黒みを帯びた異鉄が青江の澄肌のような形で顕れる所詮、『延寿肌』と呼ばれる景色が特徴である。刃文は匂口が幾分沈みごころで刃中の働きが穏やかとなる。また、帽子は小丸風に浅く返るものやもしくはやや掃掛けごころや食違いを慧眼する作域もあることにやや相違が見られるところが延寿派の特色となっている。
 本作の休鞘には医学博士・刀剣研究家の福永酔剣先生(注)による鞘書で、『城州粟田口住藤左衛門尉吉正 磨上げ無銘 正應頃 差し表素剣裏梵字護摩箸在之 刃長弐尺参寸分有之』、『吉正は三作之一として名高き粟田口藤四郎吉光の高弟なれば刃姿優美 百練の地鉄によく典雅なる直刃 整斉なる鋩子を焼き得て妙なり 平成庚午七夕後三日 福永酔剱(花押)』との見識があり好資料である。 
 附)黒漆螺旋刻鞘打刀拵拵全体写真刀装具各部写真
  • 縁頭:桐紋散図 赤銅魚子地 高彫 金色絵 無銘
  • 目貫:鳳凰図 赤銅容彫 金色絵
  • 鐔:秋草秋虫図 赤銅地 鋤下彫 金色絵 無銘
  • 柄:白鮫着 生成色常組糸諸撮菱巻
金着二重はばき、白鞘付属(福永酔剱鞘書
注)福永酔剣先生は本名を勝美、大正三年宮崎県三股町に生まれる。医学博士で元熊本大学医学部助教授。『日本刀大百科辞典』をはじめ多くの日本刀著書を執筆した日本刀の権威ある識者
参考資料:本間薫山・石井昌國『日本刀銘鑑』雄山閣 1975