A77642(S2061)

刀 無銘 大道

古刀 室町時代末期(天正頃/1573~) 美濃
刃長 71.1cm 反り 1.4cm 元幅 32.5mm 先幅 23.2mm 元厚 6.7mm

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剣形:鎬造り、庵棟。三寸程の磨上げながらも寸延びて、身幅広く元先の幅差さまで開かずに浅めの反りがついて大峰に結ぶ。鎬筋高めに平肉豊かにどっしりとした体躯(刀身拡大写真
鍛肌:板目肌肌立ち杢目交え、鎬地柾がかる強靭な地鉄鍛。地沸を厚く敷いて潤い、硬軟の鋼が織りなす地景が濃密に入って鮮明に湧き上がる。
刃紋:浅い湾れに小互の目、尖り刃を交える。刃中純白の匂い満ちて、互の目の足入り、刃縁には沸が凝り、二重刃・ほつれる刃・飛び焼きを交える。
帽子:焼刃高く強く、小乱れ先掃きかけて小丸に返る。
中心:三寸程の磨上げ、無銘。茎にも反りがある。目釘孔参個(一個埋め)。生ぶ茎部分には大筋違の鑢目、区送り部には切り鑢がある。棟肉豊かについて此所にも大筋違の鑢目がある。茎尻切り。
 『大道』(初銘『兼道』)は志津三郎兼氏九代孫と伝えられ、室町時代後期の兼常(のちの政常)、兼房(のちの氏房)と並ぶ良工として知られている。 『兼道』銘として、最古の年紀作は天文十六年紀(1547)にはじまり、永禄五年紀(1562)までの作品を観ることができるもとからおおよその活躍期を知ることが出来よう。
 『大道記』によると、兼道は永禄十二年春(1569)に正親町おおぎまち天皇に名剣を献上し、その功績により『陸奥守』に任ぜらたという。さらには『大』の一字を賜り、その栄誉を記して兼道の上に『大』を冠して『大兼道』と称号しさらに『大道』と改銘した。
 『大道』銘および『陸奥守』を冠したものは天正元年(1573)九月年紀のある刀にはじまり、以降天正十九年紀(1591)までのものがあり、兼道(大道)の槌住地については天文十六年紀(1547)「濃州関住」にはじまり、天正十九年紀(1591)「濃州岐阜住」の記録がある。
 『兼道』は新刀期の三品派の始祖としても高名である。文禄年間(1592-95)には伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊・四子を引き連れて上京し西の洞院夷川へ移住したと伝えられている。
 長子の伊賀守金道は文禄二年(1593)に日本鍛冶惣匠の称号を天子より賜り、幕政時代を通じて鍛冶受領の斡旋を行っている。次男の来金道、三男の丹波守吉道、四男の越中守正俊らは桃山時代の豪華絢爛な作風を採り入れて、美濃伝に相州伝を強く加味した個性豊かな遺作を残して名高い。
 この刀は磨上げながらも長寸を保持し手持ち重厚に大峰に結んだ豪壮な造り込みは南北朝時代の豪壮な体躯を髣髴させる。湾れの刃文は小互の目に尖り刃を交え、匂勝ちにやや粗めの沸が刃縁に絡んで金筋・砂流しさかんに入り、板目の鍛に地景が濃密に表出するなど相州物、とりわけ志津あたりを念頭に於いた大道の優品である。
時代尾張二重はばき(下貝銀地・上貝山銅地)、白鞘入、最上研ぎ