Tuba2734a

武鑑透図鐔

無銘  赤坂

竪丸形、鉄磨地、地透、毛彫、丸耳、両櫃孔

縦 85.4mm 横 83.2mm 5.6mm(耳)

特別保存刀装具鑑定書

『赤坂』の呼称は同派の居住した地名から転用したもので、現在の東京港区赤坂一帯を指している。徳川家康の江戸開府によって寛永十四年(1637)に赤坂見付が設置され一帯は幕府の御用地となった。やがては見付内外の雑木林や草原、空地は開拓されて住居地域となり急速に江戸中心部の開拓造成が行われた。

かくして各地から様々な工匠や町人達は政治・経済の中心地である江戸に集中するようになり、金工の後藤宗家や吉岡、七宝の平田家などが徳川家の招聘に応じて相次いで江戸に移住することになった。

赤坂派の初二代忠正親子が京より(尾張出身説もある)新興都市の江戸へ移住したのもこの頃である。三河尾張両国の出身者が主導権を把握していた当時は、尾張透の手法と京透の優美さを融合させて鉄味良好の丸耳仕立てに粋で斬新な意匠を融合して武人の好尚に乗り赤坂鐔は流行した。

赤坂鐔は耳際繋ぎの肉取が太く頑強で尾張鐔に類似して毛彫が力強い。耳は丸く、切羽台から徐々に平肉を削いで碁石形となる。この頃から江戸詰めの藩士らの小柄・笄を用いる大小指の慣習が定着したことにより、櫃孔は大きくなり、左右櫃孔の配置は意匠に配慮してやや均衡をはずしているものがある。

この鐔は良質な鉄磨地を碁石形に肉置して漆黒錆地の鉄色優れ、桐紋、花菱、大和桜、酢漿草の武鑑を大胆に配する意匠は垢抜けしている。細い線で構成された酢漿草・花菱や両櫃孔は京透に通じるところで、耳際の太い繋ぎや厚い丸耳は尾張鐔を彷彿する。桐紋・大和桜の力強い毛彫葉脈も鮮明な優品。江戸時代中期、粋な意匠の赤坂鐔の典型である。