G74153(S2649)

刀 銘 武芸八幡住兼国作 平成十三年七月吉日

現代刀 (平成十三年/2001年)岐阜県
刃長74.5cm 反り1.8cm 元幅33.9mm 先幅26.1mm 元厚7.5mm

保存刀剣鑑定書
無鑑査作家
岐阜県重要無形文化財保持者

10回まで無金利分割払い(60回まで)

剣形:鎬造り庵棟。身幅広く重ねやや厚くついて平肉つかずやや浅めの反りがつく。元先の幅差さまに開かず大峰延びる。(刀身拡大写真彫物:腰には二筋樋、上部には樋先の下がった棒樋の彫物がある。
鍛肌:地鉄は小板目よく詰んで総体柾がかり、地沸微塵について地景はいる。
刃紋:浅く湾れて焼きだし、湾れに複式の大互の目を交える所謂濤瀾刃を焼く。刃縁には沸が厚くついて刃中は匂い深く、互の目の太い沸はが刃先に放射して、此所に砂流し・金線が頻りとかかり沸匂の豊かな働きがあり明るく冴える。
帽子:大峰の横手で互の目が鎮まり、直刃の焼刃広く僅かに掃きかけて中丸となり尋常に返る。
中心:茎生ぶ、目釘孔一個。栗尻張る、勝手下がりに化粧鑢。棟小肉ついてここにも勝手下がりの鑢目がある。佩表には『武芸八幡住兼国作』、裏には『平成十三年七月吉日』の制作年紀がある。

 無鑑査、尾川兼圀氏は本名を尾川邦彦。大正十四年(1925)1月25日、岐阜県武儀郡武芸川町に生まれた。昭和十四年(1939)、十四歳の少年のときに刀鍛治を志し小川兼國刀剣鍛錬所に入門した。
 同十七年~十九年(1942-44)、最年少で千葉刀剣製作所の陸軍受命刀匠となり初銘を『圀忠』と名乗り作刀に励んだ。自らも中国戦線に赴いている。しかしながら、受命刀匠であった証明書が戦火で焼失してしまいその実績を証明するものは何一つ遺っていなかったため、戦後は農業や養鶏、洋食器のナイフ研磨などの職に就いて生計を立てたという。
 日本刀制作への熱い想いを絶やさず、四十七歳の時に再び刀工への道を決意。日本刀を制作するためには文化庁の認可が必要、それには最低五年間、刀鍛治に弟子入りしなければならない。兼圀氏は一念発起して昭和四十七年(1972)、金子孫六(兼元)に師事し同五十二年(1977)文化庁作刀承認を受けた。時を経て五十二歳で再出発、同年に岐阜県関市武芸町八幡にて工房を設立して独立している。
 その後の活躍はめざましいものであった。清涼な地鉄に沸の深い明るく冴えた大互の目乱れを焼いて、新作刀名刀展では『優秀賞』二回、平成十年(1998)には新作名刀展にて、『薫山賞』に輝き、同十三年~十六年に同賞を連続受賞、『高松宮賞』、『日本美術刀剣協会名誉会長賞』の大賞受賞を経て、同十八年(2006)、『無鑑査』作家に認定された。さらには同二十年(2008)、『岐阜県重要無形文化財認定保持者』の栄誉に輝いている。八十路を越えて尚、実子で弟子でもある兼国とともに武芸八幡町にて鞴を構え、槌音を響かせた現代美濃関を代表する孤高の名匠である。平成二十四年(2012)11月26日歿、享年八十七。
 表題の刀は尾川兼圀氏七十六才、新作刀展にて薫山賞を連続受賞した頃の円熟作である。元先の身幅広く重ね厚く、やや浅めの反りが付いて大鋒に結ぶ堂々たる姿をしている。清涼な小板目鍛えの地鉄は鍛接部が微塵に詰んで鉄色冴え、精緻な地沸が微塵について地底に柾目状の地景が表出して地肌が潤う。濤瀾風の大互の目乱れの刃文は焼頭が二つ、三つと抑揚して連なり、沸深い帽子はわずかな掃き掛けを伴って小丸に返るなど、津田越前守助広の刃文に私淑した感がある。刃縁の匂口が深く、刃中は小沸が深く煙り込んで刃中には匂いが充満している。粒の揃った沸は刃縁に厚くついて、太い互の目の沸足は刃先に向かって放射する。この沸足を遮って無数の砂流しや金線が掛かるなど同氏が創始した相州伝法を積極的に採り入れられている。さらには二筋樋に棒樋を掻いた兼圀氏独特の作風はもっとも調和がとれ、闊達な沸の働きを魅せた濤瀾刃大互の目の躍動は見応え十分、同工円熟期の優作である。
今回の出展にあたり、保存刀剣鑑定書が付された。
銀無垢二重はばき、白鞘入り