T281787(S8904)

刀 無銘 伝来国俊 附)金梨子地木瓜紋金切金高蒔絵鞘衛府太刀拵

鎌倉時代後期(弘安・元亨頃/1278~1320) 山城
刃長 66.2cm 反り 1.9cm 元幅 28.6mm 先幅 17.8mm 元重 6.1mm

第四十七回重要刀剣

附)金梨子地木瓜紋金切金高蒔絵鞘衛府太刀拵(佩表佩裏

 

 

剣形:鎬造、庵棟。身幅・重ねともに尋常、元先の幅差ややつき、身幅に比して鎬幅狭く、腰に踏ん張りごころがあり、腰反り深めについて猪首風の中峰に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌総じてよく詰み、地沸微塵に厚くつき、地景細やかに入り、沸映り立つ。
刃文:中直刃、小足・葉入り、小沸よくつき、金筋・砂流しかかり、表物打辺と裏中程の刃中に島刃風交じり、匂い口明るい。
帽子:直ぐ調に喰違いは交じり、先小丸に僅かに返る。
茎:大磨上、先浅い栗尻、表の鑢目は浅い勝手下がり、裏は切の鑢目がある。目釘孔三、無銘。
 山城の来鍛冶は粟田口一門とならぶ二代流派の一つで、代々京西ケ丘に住したという。国行を事実上の祖とし、子の国俊、所謂『二字国俊』を経て来国俊、三字銘の時代には粟田口一派を凌ぐ発展をみせている。以降は来国光、来国真、来国次らの諸工に引き継がれ、分派の了戒、摂津に移住した来国長、近江の来光包(中堂来)、越前の来国安(千代鶴)、加賀の藤島友重らを生み出した。公卿向けの優雅な作風から鎌倉武士の好む豪壮な太刀造りにも対応して来一門の一層の繁栄を導いて名高い。
 来国俊は国行の子、若しくは二字国俊の子または二字国俊同人説があり、二字国俊と来国俊が同人か否か未だ確固たる資料はない。生年は仁治元年(1240)とされ、没年は不明であるが、元亨元年紀(1321)の太刀が現存するため、少なくとも八十一歳までは存命であり長寿であった。
 二字国俊と来国俊との関係については、太刀 銘 『国俊 弘安元年十二月日』(1278)・東京国立博物館蔵が年紀作では最も古く、一方では 太刀 銘 『来国俊 正和四年十二月二十三日・歳七十五』(1315)・徳川美術館蔵・重要文化財がある。以降の来国俊については文保・元応・元亨元年(1321)までの年紀作がある。
 両者の作刀についてはある程度の作風の違いがあり、銘振りも相違しているので鑑定学上で両者を区別することができる。豪壮な姿態に華麗な丁子乱れを得意とする二字国俊の作風に対峙して、来国俊のそれは尋常もしくは細身の体躯に上品な直刃調の刃文を焼くものが多く、作風の区別は可能である。また二字国俊には短刀が僅かに一口しか存在しないが、来国俊には多くの短刀の作例が現存している。
 この刀は大磨上無銘ながら、優美な体配を示し、精美な鍛えに穏やかな直刃基調の刃文を焼いて、足・葉が入るなど典雅な作域を明示し、来国俊の特色を顕現した一口で出来が良い。

附)金梨子地木瓜紋金切金高蒔絵鞘衛府太刀拵(拵全体写真・佩表佩裏

  • 総金具 木瓜紋散図、無銘、真鍮魚子地、高彫、無銘
  • 共目貫 俵軍配図、真鍮地、無銘
  • 鍔 蔦金唐鐔 真鍮魚子地、無銘
  • 柄 白鮫着 俵鋲真鍮金具


金着はばき、白鞘付属