A72280(Y1518)

十文字槍 銘 手柄山甲斐守正繁 文化六年八月日 為大地文寶作之 朱皺革漆塗鞘朱鯨髭蕪巻柄拵

新々刀 江戸時代後期(文化六年・1809/200年前) 武州
刃長12.2cm 元幅9.1cm 茎長35.4cm 総長47.6cm
槍拵総長211cm

朱皺革漆塗鞘朱鯨髭蕪巻柄拵

保存刀剣

 参考品

正繁は宝暦10年生まれ。播磨(兵庫県)手柄山の人。俗名を三木朝七、号を「丹霞斉」といい、二代手柄山氏繁の次男として生まれ、初銘を氏重。三代を継いだ兄である三木新兵衛氏繁が早世のため四代として氏繁の家督を継いだ。天明八年、奥州白河藩主松平定信(楽翁候)の抱え工となり、大坂から江戸にうつる。享和三年、47歳で甲斐守を受領。晩年は楽翁候より「神妙」の二字を下賜され会心の作に草書体でこの二文字を添えた作がある。文政13年7月5日死去。71歳であった。当時流行の濤瀾乱を焼いて名を挙げ、香入れを包む袱紗の複雑な合わせ目の模様を意匠に採り入れた香包鑢を施すなど津田越前守助広に私淑した刀工としても知られる。
表題の千鳥足十文字槍は文化六年の年紀があることから正繁50歳の作である。附帯の槍拵は200年前の原姿を留め、槍は今回入念に研ぎが施された内外共に至高の槍で手柄山正繁の十文字槍は希有であり、且つ年紀と大地文寶の為銘があり、資料的な価値が頗る高い。
大地文寶は加賀藩の髙士で加賀十一代藩主である前田斉広(なりなが)に広大なご隠居所「竹沢御殿」で仕えた。兼六園の名は斉広が奥州白河藩主・松平定信(白河楽翁)に依頼したというのが定説である。楽翁が来沢したという記録はなく、斉広も竹沢御殿築造前の文政元年(1818)にはもう金沢にいたので、楽翁には直接ではなく、家臣を通じて依頼したものであろう。竹沢御殿が完成した文政五年(1822)に、楽翁から「兼六園」の揮毫が届く。5代藩主綱紀の蓮池庭から約150年、加賀藩主の庭は「兼六園」と命名された。