T282081(W5016) 脇指 銘 大道 保存刀剣
古刀 室町時代末期 (天正頃/1573-91) 美濃
刃長36.4cm 反り0.8cm 元幅30.6mm 元厚6.4mm
剣形:平造り、庵棟、身幅は広く、重ねやや厚めに、寸延びてふくら張る。やや深めの中間反りに先反りが加わる。表には宝珠を掴んだ昇龍、裏には宝珠を放った降龍の彫物がある。安土桃山期に戦国大名やその家臣らが嗜好流布した異風堂々とした姿。(刀身拡大写真
鍛肌:板目に杢目肌を交えて棟寄りに柾を配している。総体に鍛接部が緻密につんで鉄色冴えて地鉄潤う。地沸が厚くつき淡い沸映りが看取できる。肌目に沿った地景が地鉄より湧き出す。
刃文:刃区上の小互の目から焼刃の高い互の目に丁子、浅い湾れを交えて、匂口締まりごころに刃縁に湯走りかかる。刃中はよく沸づいて地の地景は刃縁をまたいで金線・砂流しとなり幾重もの層をなす。
帽子:乱れ込んで強く掃きかけて小丸となりやや長めに返る。
茎:生ぶ。茎目釘孔壱個。鑢目は浅い勝手下がり、棟肉平。中程を張らせて先細く絞られた舟底形、栗尻張る。目釘孔下に大振りの二字銘で『大道』とある。
 大道(初銘『兼道』)は志津三郎兼氏九代孫と伝えられ、戦国武将織田信長に仕えた刀工。兼常(のちの政常)、兼房(のちの氏房)と並ぶ良工として知られている。 初銘の『兼道』作としては最古の年紀作、天文十六年紀(1547)にはじまり永禄五年紀(1562)の作品を観ることができ、おおよその活躍期を知ることが出来る。
 『大道記』によると永禄十二年春(1569)に正親町(おおぎまち)天皇に名剣を献上し、その功績により『陸奥守』に任ぜられ、さらには『大』の一字を賜り、その栄誉を記して兼道の上に『大』を冠して『大兼道』と称号し、のちに『大道』と銘を改めている。
 『大道』銘および『陸奥守』を冠したものは天正元年(1573)九月年紀のある刀にはじまり、以降天正十九年紀(1591)までのものがあり、兼道(大道)の槌住地については天文十六年紀(1547)「濃州関住」にはじまり、天正十九年紀(1591)「濃州岐阜住」の記録が残っている。
 前述の資料および現存する年紀作より勘案すると、『大兼道』の称銘は、およそ元亀年間(1570-72)の数年間であったとおもわれ、『大兼道』銘の鑢目は本伝を示す檜垣鑢となっているが、天正元年の『陸奥守』受領以降、『大道』銘の鑢目は勝手下りになっている。
 『兼道』一派は新刀期の三品派の始祖としても高名である。文禄年間(1592-95)には伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊の四子を引き連れて上京し西の洞院夷川へ移住したと伝えられている。
 長子の伊賀守金道は文禄二年(1593)に日本鍛冶惣匠の称号を天子より賜り、幕政時代を通じて鍛冶受領の斡旋を行っている。次男の来金道、三男の丹波守吉道、四男の越中守正俊らは桃山時代の豪華絢爛な作風を採り入れて、美濃伝に相州伝を強く加味した個性豊かな遺作を残して名高い。
 表題の威風堂々とした平造脇指は戦陣に臨む武将の太刀の添差として具えた一口であろう。南北朝時代の相州廣光や秋広の作品を彷彿させる。幸運をもたらし、災難を除き、願いを叶える宝珠を掴んで降臨する龍神の彫物も見事。相州物特有の舟底形茎には勝手下りの鑢目が施され、大振りの二字銘が力強い鏨で刻されていた安土桃山期の制作である。彼の相州伝の作域は実子四人に伝承されて三品派を形成して江戸時代をつうじておおいに反映している。
銀着二重はばき、白鞘入
参考文献 : 鈴木卓夫・杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版 平成十八年
 
脇指 銘 大道

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