T198837(S5087) 刀 銘 正宗二十代孫 相州住綱廣 應野室定右衛門伴明需造之 | 特別保存刀剣 | 1,800,000円 |
新々刀 江戸末期(慶應/1865年頃) 相模 刃長75.4cm 反り1.6cm 元幅31.8mm 元厚7.4mm 先幅23.1mm |
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剣形:鎬造り、庵棟、身幅広い長寸の造り込みで平地広く、平肉付かず大切先に結ぶ。(刀身詳細写真) 鍛肌:小板目よく詰み、地沸つき細かな地景が青黒く沸き出でて強く冴える。 刃紋:直に長く焼きだして、互の目乱れ、よく沸付いて、匂口深く、互の目の足よく入り、金線入り、砂流しかかり、葉浮かぶなど闊達な沸の働きがある。棟には処々跳び焼きがある。 中心:茎尻は剣形。大筋違いに化粧鑢、刃側はたなご腹になり、棟肉豊かにつく。佩表の鎬地に「正宗二十代孫」、平地の孔下に「相州住綱廣」、裏の鎬地には「應野室定右衛門伴明需造之」の注文為銘がある。 帽子:浅く湾れて小丸となり、返り乱れてやや深く返る。 初代の綱廣は初銘を廣正といい、小田原城主である北条氏綱から「綱」の字を賜り、綱廣と改名し、かの鎌倉から小田原に移住したと山村家の系図にあり、小田原鍛冶の基礎を固めた名匠です。この一門は徳川時代もかなりの繁盛を保ち、明治時代まで鎚の音を響かせました。永正ごろを初代、天文ごろを二代、そして天正ごろを三代とされ以降、新刀期も十数代に渡り最期は大正時代の十五代まで繁盛したわけです。本作は十四代綱廣、名を山村繁之丞、「正宗二十代孫」の銘を切ることで知られ大正元年十二月十五日(1912)に没した。元治元年、慶應元年の年紀のあるものを慧眼する。本作は寸伸びて重ね厚く、鎬地狭く、平地の広い造り込みで大切先になるなど所詮江戸末期もっぱら幕末頃の勤王刀と云われる姿をしており、茎は相州伝を踏襲した「たなご腹」となり、茎尻は剣形となる。野室定右衛門伴明の為銘があるのも好ましい注文打の優品。 金着せはばき、白鞘入り。 |
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