T127604(S2823) 刀 無銘 手掻 特別保存刀剣
古刀 鎌倉時代後期(正中頃/約700年前) 大和
刃長69.2cm 反り1.1cm 元幅29.5mm 元重7.0mm 先幅19.7mm
剣形:鎬造り、庵棟。磨上げ無銘。鎬地広く、鎬筋が高い。反り浅めについて元先の幅差がさまに開かず、中鋒に結ぶ。(刀身拡大写真
鍛肌:強く叩き詰めた強靱な地鉄。板目肌に大杢目肌を交えて、刃寄りと棟寄りに柾目状の鍛肌を形成している。一面に地沸が厚く敷き詰められて、太く力強い地景が織りなす景観は明るく美しい。
刃紋:沸出来の湾れ刃が表裏よく揃う。刃沸強く、厚くついて一分は荒沸が交じり、沸崩れもある。鍛の肌目は刃境を跨いで刃中の働きを形成して、ほつれ、二重刃、打ちのけ、湯走り、太い金筋や砂流しを形勢してなどを交え、夜空の銀河のごとく目映く輝く。
帽子:強く沸づいて、ほつれ、二重刃ごころに中丸に返る。
中心:大磨上げ無銘。目釘孔弐個、茎尻は浅い栗尻、鑢目は浅い勝手下がり。
 大和伝は平安時代末期の千住院派をはじめに、鎌倉中期以降には大麻、手掻、保昌、尻懸の四派を加えて大和五派を形成していた。彼らは社寺と密接に関係しており、刀工自らも各寺院に帰依していたとおもわれ、寺院の私兵として武装した僧侶の集団、所謂僧兵への供給を目的として編成された刀工集団であった。鎌倉時代には強大な勢力となり、仏法保護の名目で強訴・政争に参加した僧兵に隷属した故に、これらの寺院の盛衰と運命を共にすることとなった。鎌倉末期以降は新興宗派の勃興や武家制度の確立、豪族の勢力増強などを経て旧制度の寺院との関係維持が困難となり、大和鍛冶は諸国に分散している。大和鍛冶の作品は在銘の作品に関しては他国の鍛冶に比較して非常に稀である。その要因は当時は売品ではなく、寺院のお抱えであったことから銘を入れる必要がなかったこと、献上した作品には銘を入れる慣例がなかったこと、さらには長寸の太刀であったために、殆どが二尺三寸前後に磨り上げられたことが要因であったと思われる。
 手掻派は東大寺に所属した刀工集団で、東大寺西の正門、転害門(てがいもん)の門前に居住していたことから、手掻(てがい)と呼称されている。大和五派のなかでは最も規模が大きく繁栄しかつ技量が安定している一派として知られ、手貝町、包永町などの地名を今に残している。手掻派の始祖は鎌倉時代中期の正応(1288)頃の包永で、名物『児手柏』(大正十二年の関東大震災で焼失)や岩崎家所蔵品の国宝、他に重要文化財6口が知られているものの、これらの指定品は磨り上げられて茎尻に二字銘が残されたものである。手掻派の刀工達はほかに、包吉、包清、包友、包利などがおり、正宗十哲の一人、兼氏(初銘包氏)も手掻派に属したといわれている。
 手掻派は南北朝期を経て室町時代まで続いている。南北朝時代までの作品を『手掻』、応永以降室町時代の作品を『末手掻』と呼称している。大和五派中でもっとも沸が強く、地鉄が冴えるのが手掻の特徴とされている。
 大和手掻と極められた本刀は、磨上げながらも、手持ち重厚に身幅広めに切先延びごころ、鎬筋が凛と高く重ねが厚い威風堂々たる姿をしている。一面に厚く敷き詰められた地沸に呼応した顕著な地景が織りなす板目肌は流れて柾目がかる部分がある。肌目は刃中に至り、目映く輝く刃沸に呼応して打ちのけ、ほつれ、金筋などが顕著に現れて美しい。表裏の湾れがよく揃うことも手掻派の特徴をよくあらわしている。同時代にこれほど沸が強く美しい鍛肌を魅せる刀は稀有である。本刀は相州伝上位刀工の趣きを兼ね備えており、志津三郎兼氏は手掻一門の出自とされる所以であろう。
金着せ太刀はばき、白鞘入り

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