T123564(W8577) 脇指 銘 駿河守盛道 (初代) 特別保存刀剣
新刀 江戸時代初期(慶長頃/1596~14) 尾張
刃長47.1cm 反り1.2cm 元幅32.3mm 元重5.5mm
剣形:平造り、庵棟。寸のびてやや先反りごころ。重ね薄めに身幅は広く、元先の幅差はさまで開かずにふくらが張る。威風堂々たる慶長姿。(刀身拡大写真
鍛肌:杢目肌を主調に流れる肌を交え鉄色冴えた鍛の強い肌合い。地錵が厚くついて太い地景が湧きだして美しい肌目をしている。
刃紋:小錵本位の大乱れ。区上で焼き落として浅く焼きだし、匂口締まりごころに刃縁に小沸よく付き明るく冴える。頭の丸い複式互の目・丁子刃・尖り刃や片落ち風互の目など交えて焼刃高く豪華絢爛たる装い。匂い充満する刃中は明るく透明感があり、互の目の沸足は長く放射して明るく浮かび上がり、沸筋は細波となり連続し互の目足を貫くように砂流・金線がかかる。
帽子:乱れ込んで小丸となりやや掃きかけごころに返りが深い、所詮『地蔵帽子』になる。
中心:生ぶ。茎尻。表の鑢目は大筋違、 裏の鑢目は檜垣鑢。茎孔弐個。佩表のには茎いっぱいに大振りの長銘『駿河守盛道』がある。
 桃山時代・慶長、初代の駿河守盛道は永禄年間のはじめ(1558)頃、岐阜『盛道』の子として生まれた。『尾張刀工譜』では関七流の『室屋長衛門五道兼道』の末葉で本国美濃関から岐阜に転住し、山城での作刀もあるとされている。
 慶長十五年(1610)、名古屋城築城後に家康九男・徳川義直が城主になると名古屋城下に鞴を構えて尾張藩の抱え工として活躍した。三品派の始祖で、伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊の父として高名な『陸奥守大道(大兼道)』の有縁とおもわれ、慶長桃山期の岐阜・尾張鍛冶の代表刀工である。同時代の政治・経済・文化・思想と広範囲に及ぶ社会環境の変革による中世から近世への一大転換期に美濃伝に豪華絢爛な作風を採り入れて個性豊かな遺作を残して名高い。同銘、駿河守を受領した二代盛道は寛文(1661-72)頃、三代は元禄(1688-03)頃の作刀がある。
 初代の作風は同時代に流布した幅広で大切先で威風堂々とした慶長姿をしており、鍛は杢目に柾交じりの肌に大乱れや広直刃を焼いている。やや短いたなご腹風の茎には同時代の伊勢千子、駿河島田、相州綱広、武州下原いづれにも共通する特徴であり、東海道を通じての技術交流が伺えよう。
 また尾張の剣豪『今泉源内』の差料、脇指 銘『駿河守盛道 飛騨守氏房』 刃長 壱尺五寸は、初代・駿河守盛道と初代・飛騨守氏房の合作で、佩表に盛道銘があることから、盛道が先輩格でることが解る貴重な資料である。
 尾張刀工は徳川御三家の筆頭で中京と呼称された至高の立地条件のもと、三品一門とともに双璧をなす名刀を制作しながらも、その多くは他藩への売品としてではなく、藩の抱え工として活躍したために絶対的制作数は少ない。本作は尾張上級藩士の腰刀として伝承されて健全な体躯を保ち、優作鍛冶であることを首肯する完存の優品である。
金着はばき、白鞘入り。
参考文献:
岩田與『尾張刀工譜』名古屋市教育委員会、昭和五十九年
特別展 『鉄ーくろがねー攻めと譲り・武士の美』 図録 平成十六年二月二十八日
脇指 銘 駿河守盛道
脇指 銘 駿河守盛道
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