S6925(W3396) 脇差 銘 伯耆守信照 (三代信高前銘)
新刀(寛文五年/1665) 尾張
刃長54.7cm 反り1.8cm 元幅37.0mm 先幅27.4mm 元重8.5mm
剣形:鎬造り、庵棟。身幅はとりわけ広く、元先の幅差はさまで付かずに重ねが頗る厚い。反りがやや深めにつき大切先に結ぶ豪壮な姿をしている。(刀身拡大写真
彫物:表裏には樋先の下がった棒樋の彫物をはばき上で丸留にする。
鍛肌:小杢目肌詰んだ美しい鉄色をして地錵が付いて地景はいる。
刃紋:広直刃の刃縁ははやや粗めの沸が絡んで小乱れ・小足入り、葉浮かぶ。表の中頃はほつれる刃や二重刃交える。刃縁にはやや粗めの強い錵が厚く積もり明るい光彩を放つ。刃中は柔らかな匂いを敷いて葉浮かび、小乱れ・ほつれ・二重刃かかる。
帽子:帽子の焼刃は高く、直刃調小乱れ。先中丸となり深く返る。
茎:生ぶ。鑢目大筋違い。目釘孔壱個。茎尻は刃上り栗形張る。茎丸棟でここにも大筋違いの鑢目がある。

 三代信高の脇指である。『信照』は『信高』襲名前の銘であることから、『伯耆守』任官の寛文五年三月五日から同五月に徳川光友より十人扶持を受けて尾張徳川家の藩工に任じられる数ヶ月、ごく短期間に作刀された稀有な作刀である。身幅は殊の外広く、重ね厚く元先の身幅張り大切先に結ぶ威風かつ強靱な体躯は、尾張武士達の貫禄を湛え大業物の迫力に満ち、『尾張三作』と称賛される気風で溢れる。柳生連也の兵法に基づく需打ちであることは明白であり、尾張藩の兵法指南役、柳生連也厳包所持の脇指 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』(桑名市博物館蔵)とは製作年および体躯が近似する資料的に頗る貴重な作刀である。茎の鑢目、銘字の鏨は鮮明で保存状態は頗るよい。
 
 二代信高は、初代慶遊信高の嫡子として慶長八年、尾州清洲関鍛冶町に生まれた。河村伯耆という。同十五年名古屋城築城にともない名古屋関鍛冶町(現、名古屋市中区丸の内三丁目)に移住。寛永十年八月二十九日、三十一歳で伯耆守を受領した。尾張国初代藩主徳川義直の御用鍛冶に命じられ百石を受けている。寛文二年、六十歳で隠居「閑遊入道」と号した。隠居後は『伯耆守信高』のほか『前伯州信高入道』、『前伯州閑遊入道』、『前伯州山月信高入道』などと銘を切る。元禄二年九月二十七日没、享年八十七。
 三代信高、河村三之丞は寛永九年に生まれ、初銘を『信照』という。寛文五年三月五日、三十四歳のときに伯耆守を受領した。同年五月に尾張二代藩主徳川光友の命により尾張徳川家のお抱え鍛冶に任じられ扶持十人分を受けた。宝永四年八月二十日没、享年七十六。
 寛文から延宝年間は刀剣の需要が多く、特に武芸の盛んな尾張国では頑丈な造形のものが求められた。同藩の剣術指南役である柳生連也厳包の佩刀を鍛えた信高の刀は質実剛健を旨としながらもその豪壮な作りこみと大業物としての名声を世に知らしめた。父である閑遊入道信高と協力して鍛刀に励み、歴代信高中、二代・三代の刀がもっとも出来が優れているといわれている。信高の『伯耆守』受領は五代目までで以降後代の任官はない。
 伯耆守藤原信高の銘については二代・三代の銘振り・茎仕立てが近似していることから代別が困難ではあるものの、詳細に観ると銘の特徴として『守』の第三画は中央に向って角度付き鏨を運ぶこと、さらには『藤』の第三画は『月』の肩に向って長く斜めに切る、『信』の最終画はやや右下方に鏨を跳ねるなどの特徴は三代河村三之丞信高の切銘と考えられている。
銀着せはばき・時代白鞘入
参考文献・資料:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
『刀剣美術』第357号、日本美術刀剣保存協会、昭和61年10月

脇指 銘 『三阿弥末派伯耆守信高作 平氏厳包所持之、寛文七秋一之胴奥大桃灯一刃 二津胴快裁落之入平地数寸也』 (桑名市博物館蔵)
 
脇差 銘 伯耆守信照 (三代信高前銘)
 脇差 銘 伯耆守信照 (三代信高前銘)
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