S27386(T8631) 短刀 銘 近江守忠綱
附)松皮文黒漆棕櫚毛塗鞘合口拵
特別貴重刀剣
特別貴重小道具
新刀 江戸時代中期(貞享頃・約330年前) 摂津
刃長29.0cm 反り0.2cm 元幅29.0mm 元重5.6mm
剣形:平造り、庵棟。身幅広く、寸がのび、ふくらの付いたほぼ無反りの短刀。(刀身拡大写真
鍛肌:小板目肌に小杢目交えて美しくつんで、地沸微塵に厚くついて鉄色明るく、細やかな地景が湧き出して精緻な肌合いとなる。
刃紋:総体小沸出来で、鎺元をやや短く焼きだして足長丁子を焼いている。刃中は匂い充満して澄み、丁子の足が刃先に向って長く伸び、足を遮って金線、砂流しがかかる。僅かに棟焼がある。
帽子:直ぐに中丸となりやや深く返る。
中心:茎生ぶ。鑢目は大筋違。茎尻は刃上栗尻形。目釘孔弐個。佩表『近江守忠綱』の銘がある。
 粟田口近江守忠綱は名を浅井万太夫。初代の近江守忠綱の長子として生まれた。初銘を「忠國」と名乗り、寛文二年(1662)、十九歳の作品がある(藤代義雄、『日本刀辞典』新刀編より)。後に二代目を継ぎ、元禄二年(1689)頃から「一竿子」と号し、「粟田口一竿子忠綱」、「一竿子忠綱」などの銘が多く見られるようになり、また本作の様に「近江守忠綱」銘を併存させている。二代近江守忠綱の作風は、焼頭のよく揃った足の長い丁子乱れ、互の目乱れや濤欄刃風の乱れ、さらには直刃・浅いのたれ刃なども焼き、倶利伽羅・三鈷柄剣・鯉の滝登り・梵字や護摩箸などの意匠濃密な彫物の名手としても知られています。「綱」の(つくり)が前期は「縄」となり、元禄の中期以降は判然たる「綱」と改めました。刃長が三尺二分に及ぶ重要文化財、『太刀 銘 粟田口一竿子忠綱彫同作・寶永六年八月吉』があり、津田越前守助広・井上和泉守国貞・粟田口一竿子忠綱は大阪新刀の三英傑と賞され、最上位作の頂点を担う名工の一人です。
 天明4年(1784)3月24日、旗本・佐野善左衛門は江戸城中で、大老・田沼意次の息子である若年寄・田沼意知を「覚えがあろう」と3度叫んでから、一竿子忠綱作の大脇差で襲撃し、その8日後に意知が絶命したため佐野家は改易のうえ切腹の処分を受け自害した。しかし、世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められ、忠綱の人気は一層盛り上がりました。
 大阪夏の陣で焼けた大阪城は徳川幕府の手で再建されて、大阪は江戸の台所として大都市に発展。近江守忠綱は山城、京伏見より大阪常磐町に移り住んで、上質な鋼を用いて華麗な足長丁子を焼く、意匠濃厚な彫物を施すなど一世を風靡して温存され、現代まで名品を数々残している。
 本作は裕福な豪商の注文打であろうか。忠綱の短刀は稀有である。短刀であることから、長銘をさけ、粟田口を省いて『近江守忠綱』と銘を切っていること、「綱」の(つくり)が「縄」となっていることから天和から貞享(1681-1687)にかけての前期作であることがわかる。
 寸のびて、元の身幅広く大振りの短刀の地鉄は小板目がよくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細やかに入るなど、如何にも大阪新刀らしい精美なもの。本伝の刃文は鎺元の短い焼だしに始まり、足長丁子を巧みに配した華麗なもの。本三枚などの造り込みによる鍛接面に現われる、刃縁あたりを縫うが如く現われる金線が長く明瞭に連続て足長丁子の足を細波のごとく遮り、端正な直調中丸の帽子に結ぶなど、同工の特徴が顕著に認められる。江戸時代中期を迎え、活気溢れる元禄期の大阪文化を今に伝え頗る健全な体躯を保つ優品である。
附帯の『松皮文黒漆棕櫚毛塗鞘合口拵』:(刀装具詳細画像打刀拵全体画像
白鮫着根岸色糸平菱巻柄・金地玉龍図目貫
総金具(縁頭・鯉口・栗形・鐺)・四分一地雨龍丸紋散
松皮文黒漆棕櫚糸塗鞘
金着一重腰祐乗鑢はばき。時代白鞘付属