B1086(S8918) 刀 菊紋 銘 伊賀守藤原金道
附)金梨子地巴紋蒔絵散鞘半太刀拵
特別保存刀剣
新刀 江戸時代初期 (寛永頃/1637~)山城
刃長 73.9cm 反り 1.4cm 元幅 30.1mm 先幅 20.4mm 元厚 6.5mm
剣形:鎬造、庵棟、寸延びてやや浅めの中間反りがついて元先の幅差頃合いに中峰に結ぶ寛文~延宝頃に流布した打刀姿。(刀身拡大写真
彫物:樋先の下がった丸留両チリの棒樋の彫物がある。
鍛肌:地鉄、板目肌よく錬れて杢を交え処々流れる肌合い。地錵よくついて地景顕れる美麗な肌目を魅せる。
刃文:焼刃の高い互の目乱れは刃中匂いを敷いて刃縁は小錵よくつく。処々複式の小互の目が連なり箱がかり、矢筈風の刃、逆がかった刃や尖りごころを交え明るく冴える。
帽子:横手下で鎮まり直ぐ調となり僅かに湾れて小丸に返る、所謂『三品帽子』となる。
中心:一寸五分程の区送り。生ぶの栗形茎尻。目釘孔三個(第二、三の穴は双方とも生ぶ穴)。筋違の鑢目。佩表の第一目釘穴下に大振りの十六葉の菊紋、第二目釘穴を挟んで鎬筋上にはやや大振りの長銘『伊賀守藤原金道』がある。

 三品系の繁栄は志津三郎兼氏九代を称し、武田信玄に仕えた関の住人『兼道』が文禄二年(1593)に四人の子を連れて上京したのをはじまりとし、伊賀守金道、和泉守金道、丹波守吉道、越中守正俊らの兄弟は三品派と称され、埋忠明寿、堀川国広の一門と並んで幕政時代を通じて栄えた名門。
 初代伊賀守金道は兼道の長男で、文禄三年(1594)に伊賀守を受領、三品一派の家長として禁裏御用の重職を勤めた。慶長十九年(1614)、大阪冬の陣を控えて徳川家康より「三ヶ月間で刀千振り」の制作を命じらた折りに、家康の奏上で『日本鍛冶惣匠』の称号を朝廷より賜り、以降代々『伊賀守』を受領して『日本鍛冶惣匠』と『菊紋』を刻することを許された名門である。刀匠の受領手続きの窓口に就いて、頭領としての格式と伝統を代々受け継いで総ての刀鍛冶の頂点に立ち受領任官における取次ぎの権限を掌握していた。すなわち受領を希望する刀工は金道に誓紙を提出し弟子になる必要があったという。

 表題の刀匠『伊賀守金藤原金道』俗名『三品勘兵衛』は金道初代の子で業物の誉高き優工。父没後の寛永六年十二月十一日に二代目金道の家督を相続、同十四年九月十六日に伊賀守を任官して西洞院竹屋町通に鞴を構えた。寛永末年から延宝初年にかけての作品を慧眼する。以降三品金道家は幕政時代を通じて十代まで刀匠会に君臨する重鎮であった。延宝八年十月二十一日歿。
 この刀は玉鋼の鉄色冴え、板目鍛はよく錬れて地錵が厚くついて潤い、平地には錵映りがたつ。寸延びてやや浅めの反りのついた体躯は均整がとれ、丸留めの棒樋は両チリが凛と整えられて樋中は美しく磨きあげられている。刃中は濃密な匂い満ち、柔らかみのある匂口は明るく角度変化ある足は刃先に向かい放射している。浅く湾れる切先の焼刃は『三品帽子』の典型。実践の備えとしたのであろう、第三の控え目釘穴を穿っている。
 騎馬での佩刀を念頭に於いた金梨子地塗巴紋散太刀拵に納めるべく一寸五分ほど区が送られ刃長を調整しながらも尚、二尺四寸四分と長寸の体躯を保持している。内外ともに出色な出来映えである。

附)金梨子地巴紋蒔絵散鞘半太刀拵(表全体写真裏全体写真刀装具各部写真
総金具(兜金・縁・鯉口・栗形・柏葉・石突):巴紋散図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、同小縁、無銘
目貫:巴紋三双図、容彫、金色絵
鐔:葵木瓜形、鉄杢目地、巴紋散図、金象眼、両櫃孔、無銘
小柄・割笄二所物:巴紋散図、赤銅魚子地、高彫、金色絵、同小縁、無銘
小刀:銘 相模守藤原政常
鞘:金梨子地塗金銀巴紋散高蒔絵
柄:朱漆塗鮫着、紫変組糸片捻菱巻

赤銅魚子地はばき(梵字の金色絵)、白鞘付属
 
刀 菊紋 銘 伊賀守藤原金道
刀 菊紋 銘 伊賀守藤原金道
 ホームに戻る