A76078(W8580) 寸延短刀 銘 兼道作 附)黒金籾殻塗鞘腰刀拵
古刀 室町時代末期 (永禄頃/1558〜) 美濃
刃長31.5cm 反り0.3cm 元幅28.6mm 元厚5.7mm
剣形:平造り、庵棟、身幅は広く、重ねは尋常。寸が延びてふくら豊かに張り、やや浅めの中間反りに先反りが加わる。表裏の棟寄りには樋先が大きく下がった棒樋を茎に掻き流す。安土桃山期に戦国大名やその家臣らが嗜好した異風堂々とした姿をしている。(刀身拡大写真
鍛肌:板目に杢目肌を交えて棟寄りに柾目状の肌目を交えて肌立ちごころ。刃区より地映りがたち、鉄色冴えて深淵より地景が湧き出す。
刃紋:湾れに互の目、腰の括れた丁子刃には跳び焼きごころがあり、処々に尖り刃を交える。互の目の谷に細かな錵が凝りここに砂流しがかかり、焼頭の刃縁は匂口がやや締まりごころ。
帽子:乱れ込んで地蔵風になり棟に深く返る。
茎:生ぶ。茎目釘孔弐個(上方の第一目釘孔が生ぶ孔)。鑢目は檜垣、棟肉平。茎尻は栗尻張る。第一目釘孔下に『兼道作』の三字銘がある。
 兼道(のち『大道』と改銘)は志津三郎兼氏九代孫と伝えられる。室町時代後期、兼常(のちの政常)、兼房(のちの氏房)と並ぶ良工として知られている。 『兼道』銘としては最古の年紀作である天文十六年紀(1547)にはじまり永禄五年紀(1562)までの作品を観ることができ、おおよその活躍期を知ることが出来る。
 『大道記』によると永禄十二年春(1569)に正親町(おおぎまち)天皇に名剣を献上し、その功績により『陸奥守』に任ぜられ、さらには『大』の一字を賜り、その栄誉を記して兼道の上に『大』を冠して『大兼道』と称号し、『大道』と改銘している。
 『大道』銘および『陸奥守』を冠したものは天正元年(1573)九月年紀のある刀にはじまり、以降天正十九年紀(1591)までのものがあり、兼道(大道)の槌住地については天文十六年紀(1547)「濃州関住」にはじまり、天正十九年紀(1591)「濃州岐阜住」の記録が残っている。
 『兼道』一派は新刀期の三品派の始祖としても高名である。文禄年間(1592-95)には伊賀守金道・来金道・丹波守吉道・越中守正俊・四子を引き連れて上京し西洞院夷川へ移住したと伝えられている。
 長子の伊賀守金道は文禄二年(1593)に日本鍛冶惣匠の称号を天子より賜り、幕政時代を通じて鍛冶受領の斡旋を行っている。次男の来金道、三男の丹波守吉道、四男の越中守正俊らは桃山時代の豪華絢爛な作風を採り入れて、美濃伝に相州伝を強く加味した個性豊かな遺作を残して名高い。
 『兼道作』の称銘を刻した本作の茎鑢は本伝を示す檜垣鑢をしており、およそ永禄年間頃(1558-69)の作刀であったとおもわれる。(受領のために上洛以降の作品、すなわち天正元年以降の『陸奥守』を冠した『大道』銘の鑢目は勝手下がりになっている)

付帯の黒金籾殻塗鞘腰刀拵は完存の優品で出来がよい。(柄前拡大写真小道具拡大写真
  • 縁頭・栗形:蔦唐草文図、赤銅石目地、高彫色絵、無銘
  • 目貫:月下水鳥図、銀地容彫素銅色絵
  • 鐔:無文、素銅磨地、赤銅五月雨文、無銘、金着菊座大切羽
  • 笄:一引定規図、小柄:二疋獅子図、無銘
  • 金着二重はばき、白鞘付属
参考文献 : 鈴木卓夫・杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版 平成十八年
 
寸延短刀 銘 兼道作 附)黒金籾殻塗鞘腰刀拵
寸延短刀 銘 兼道作 附)黒金籾殻塗鞘腰刀拵
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