A72466(W5083) 脇差 銘 奥州住兼定
附)茶石目地陰陽蔦紋散鞘脇指拵
保存刀剣
新刀 江戸時代初期 (寛永/1624年頃) 陸奥
刃長51.2cm 反り1.2cm 元幅29.2mm 先幅21.1mm 元厚6.9mm
剣形:鎬造り、庵棟、身幅はやや広く、元先の差さまに開かず、反り重ねともに尋常で、中切先が延びる。(刀身拡大写真
鍛肌:板目に流れる肌交え、大肌心となり、鎬地は柾目肌。地錵が厚く付いて鉄色青く冴える。
刃紋:湾れに互の目、尖りごころの刃や丁子刃を交え、刃縁には小沸が厚く付いて、刃中に太い錵足が頻りに入り、刃中は匂であつく充満して明るく冴える。
中心:茎生ぶ、茎尻剣形。茎孔弐個、鑢目大筋違。棟肉平。佩表に大ぶりの長銘『奥州住兼定』と銘がある。
帽子:乱れこんでやや掃きかけごころに中丸に返る。
 美濃国の名匠、和泉守兼定(之定)の孫にあたる古川清右衛門兼定が弘治年間(1555〜1557)に会津領主、芦名盛氏に俸禄二百石をもって移住し、会津兼定家の開祖となったと伝えられている。
 本脇指は清右衛門兼定の子、古川孫四郎兼定の作品である。同工は本国美濃より松平結城秀康(注1)の求めにより越前にわたり、さらには文禄(1592〜1595)始めに会津に来住した。慶長年間には藩主、蒲生氏郷に仕えて会津兼定初代となる。寛永四年より綱房と銘を切るという。寛永十四年八月二十日(1637)没。以降代々、会津藩の御用を勤め同銘十一代(注2)を数えて明治末期に及んだ。良業物。
茶石目地陰陽蔦紋散鞘脇指拵
縁頭 無銘 梅菊花図 赤銅石目地 高彫 金素銅色絵
目貫 知勇図 容彫 金渡金
鍔 銘 埋忠、菊花図 鉄地、撫角形 肉彫 金象眼 両櫃孔(縦64.7mmx横59.1mm)
柄 白鮫着 茶色常組糸菱摘み巻(処々に綻び跡がある)
鞘 茶石目地陰陽蔦紋散蒔絵鞘
銀地腰祐乗鑢はばき、白鞘付属。
(注1)「越前国住兼法慶長十二丁未八月吉日、藤原兼定太刀助」の作品や松平結城秀康の注文打が現存している。
(注2)会津兼定十一代の刀は新撰組副長・土方歳三の愛刀として広く知れわたり、実際に土方の遺品として遺されている。