A41667(S2150) 刀 銘 美濃和泉守兼定作 明暦二年五吉日
附)黒漆藍鮫革研出鞘太刀拵 
特別保存刀剣
新刀 (明暦二年/1656) 武州
刃長73.3cm 反り1.6cm 元幅31.8mm 元厚7.6mm 先幅20.8mm
剣形:鎬造り、庵棟、長寸で元の身幅広くやや浅めの反りが付いて中切先に結ぶ。重ねは厚く、刃棟区ともに深く、頗る健全な体躯をして、どっしりと重量のある打刀である。(刀身全体写真
鍛肌:板目肌がよく詰んで地沸付き、精緻な地景が湧き出して明るく冴えた鍛肌。
刃紋:小沸本位。刃区で直調に短く焼だし、背の高い互の目を主体として腰の括れた頭が丸い丁子刃、箱がかった互の目、尖り刃、矢筈刃などを交える。刃中の焼頭にはところどころに葉が浮ぶ。佩表の物打上部は沸が厚くからんで、焼頭を遮るように湯走りがかかり、此所に砂流しが流れるなど沸の闊達な働きがある。佩表の小鎬棟と裏の中程やや下方に棟焼がある。
中心:生ぶ。目釘穴壱個、鑢目は鷹の羽。茎尻は刃上がり栗尻形。佩表鎬筋上に『美濃和泉守兼定作』と大振りの銘があり、佩裏の鎬地には『明暦二年五吉日』(1656)の年紀がある。
帽子:横手上で互の目を焼いて直ぐとなり中丸に返り、僅かな棟焼を見る。
 美濃刀の歴史は、おおよそ三期に分類することができる。南北朝時代にみられる他国からの刀鍛冶の流入、明応(1492〜1501)期以降の直江、赤坂の地を中心とする美濃鍛冶の発展、さらには室町末期から新刀期にかけての関鍛冶の地方への伝播である。永正から大永(1504〜1525)にかけて、上質の鋼を使い、美術的に優れた作品が生み出され、なかでも二代といわれる兼元と和泉守兼定(之定)は美濃鍛冶を代表する双璧として知られている。二代兼定は、永正五年〜八年頃までの間に、刀工としてはじめて国司の位である受領銘を受領したと言われており、その後新刀期の刀工達が受領銘を切ることが一般化する先駆であった。(それまで、備前などの刀剣産地において、銘に中央官僚の官職名である「左兵衛尉」や「修理亮」などを用いる例があったにすぎない)
 和泉守兼定(之定)は傑出した技量を持ち、守護代の斉藤氏との深い繋がりから、関鍛冶のなかでも別格の高い評価を当時から得ており、戦国武将の求めがあったことにくわえて、その作品が後世にわたり大切に伝承されたことは容易に想像される。
 新刀期にはいり、経済流通の中心が城下町に集中するようになると、関鍛冶は新たな需要を求めて日本各地に移住している。新刀期の多くの刀剣には美濃伝の影響が顕著にあらわれている背景には、彼らの優れた技量はもちろん、戦国時代の兼元(二代)や和泉守兼定(二代)らの功績があったことはいうまでもない。武州の虎徹は之定(和泉守兼定)を手本とした作品を手掛けており、兼元の三本杉と称される刃文も多くの刀工に受け入れられている。和泉守兼定(之定)の孫は陸奥国に招かれて会津兼定家中興の祖となり、幕末十代まで続いている。
 本作は室町期の兼定(之定)の本流である後世が、美濃より移住して武州江戸に居を構えた和泉守兼定の優刀である。本国《美濃》を誇らしげに冠して国司受領名《和泉守》、さらには《兼定作》と切ること、鑢目は鷹の羽となり、茎尻が刃上がりの栗尻となることなどは本国、美濃伝を忠実に再興している。刃文は互の目を主体に丁子刃を交える、華やかな印象をうけるもので、焼幅は高く、互の目の頭が箱のようにやや左右に広がり四角味を帯びたもので、和泉守兼定(之定)受領前の明応・文亀(1492〜1503)期にしばしば見受けられる刃文を焼いていることも典型である。
附帯の黒漆藍鮫革研出鞘太刀拵(拡大写真)は
総金具 四分一皺革文地 毛彫 兜金、足金物、石突金物渡金
太鼓金玉龍図・櫓金 赤銅魚子地金色絵
目貫 這流図 金地 容彫
鍔 剣木瓜形 四分一皺革文地 毛彫 丸に揚羽蝶文 赤銅地金色絵据文象嵌
大菊花先太切羽二枚 小菊刻切羽二枚 銀磨地渡金
柄 香色金襴着 卯の花色平菱巻
刀身は寸のびで豪壮な姿を讃え、明暦二年(1656)の年紀があることも好ましい。生ぶの黒漆藍鮫革研出鞘太刀拵の出来は秀逸で、ことのほか保存状態もよい、新刀期 和泉守兼定の傑作である。
金着腰祐乗鑢はばき、白鞘入