0
刀剣徳川 Tokugawa Art
<< 戻る
A27003(S838)
+運賃
刀 銘 伯耆守十代孫藤原信高 明治二歳二月日 附)黒石目地塗鞘打刀拵
新々刀 明治時代初期(明治二年/1869)尾張
刃長 70.5cm 反り 1.2cm 元幅 32.2mm 先幅 26.0mm 元厚 6.7mm
特別保存刀剣鑑定書
附)
黒石目地塗鞘打刀拵
剣形:鎬造り、庵棟。身幅広くやや浅めの反りがつき元先の身幅差さまで開かずにに、鎬地に比して平地広く、大峰に結ぶ威風堂々とした体躯。(
刀身全体写真
)
鍛肌:板目肌鍛はやや肌立ち、地沸がついた強靭な地鉄をしている。
刃文:元を湾れ刃で焼きだし、焼刃高い大湾れに互の目に尖り刃・丁子刃を交じえ、刃縁には粗めの沸がつき、地に湯走りかかり処々跳び焼きがある。
帽子:表裏ともに焼刃高く、互の目を二つ焼いて先尖り小丸に返る。
中心:生ぶ。鑢目は大筋違に化粧。刃上がり栗尻張る。棟方肉ついてここにも大筋違に切化粧鑢がある。目釘孔壱個。履表の鎬筋上に大振りの長銘『伯耆守十代孫藤原信高』、裏には『明治二歳二月日』の制作年紀がある。
幕末期、開国をもとめる欧米勢力にたいして、我が国は『佐幕』と『勤皇』の国論を二分することとなった。大政奉還(1867)を迎え、戊辰戦争(1868~69)・西南戦争(1877)におよび、最期にして最大の士族反乱期には打刀の需要が増大し、とりわけ大切先に結ぶ豪壮たる体躯が隆盛した。
伯耆守十代信高は名を『河村邦三郎』(国三郎)という。尾張藩の藩工として、安政三年(1856)に家督を相続して十代信高を襲名した。
身幅広く、大峰に結ぶこの刀は戊辰戦争(1868-69)最中の特別な需により精鍛された雄渾たる体躯をした打刀。板目に鍛えられた強靭な地鉄肌には地沸が厚くついて煌めき、板目の肌目に沿った地景が表出する。大乱れに湯走りかかり、跳び焼きを交える絢爛たる焼刃は幕政時代の有終完美を飾るに相応しい尾張武士の気概を今に伝えている。(尾張刀工譜所載品)
附)
黒石目地塗鞘打刀拵
(
拵全体写真
・
刀装具各部写真
)
縁頭 :赤銅魚子地 磨小縁 無文 無銘
目貫 :龍伊勢海老図 赤銅容彫
鐔 :四方木瓜唐花透図 鉄地 無銘 正阿弥
柄 :白鮫着 紺色常組糸諸撮菱巻
時代山銅一重はばき、白鞘付属
(注)初代信高、河村左衛門は三阿弥兼國の末裔の鍛冶で兼高の子。永禄四年(1561)に
美濃国上有知
(現美濃市松森)に生まれた。氏房とは同姓の一族である。天正初年(1573~)尾張清洲関鍛冶町に移り、織田信長からの寵愛を受け「信」の字を下賜されたという。天正四年、安土築城の際、信高は弱冠十五歳であった。 天正九年(1581)、弱冠二十一歳のときに『伯耆守』を任官と伝えられる。清洲城下在住の間、織田信長の陣刀を打ち、以降歴代の清洲城主の愛顧を受けて徳川家康、松平忠吉の打物を命じらている。
慶長十五年(1610)名古屋築城に際し
名古屋鍛冶町
(現名古屋市中区丸ノ内三丁目・テレビ塔付近)に移住、初代藩主徳川義直の命により作刀した。 寛永十年、七十三歳のとき、二代信高に家督を譲り入道して『慶遊』と号し、同十三年九月九日歿享年七十六。以降信高家は尾張徳川家の手厚い保護を受けて幕末までその名跡は続いている。
参考資料:
岩田與『尾張刀工譜』名古屋市教育委員会 昭和五十九年
石井昌國、本間薫山『日本刀銘鑑』 昭和五十年
!
スマートフォンモード
To create online store ShopFactory eCommerce software was used.
0
日本語 (Japanese)
English (English US)