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刀剣徳川 Tokugawa Art
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H108293(S1503)
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刀 銘 氏房 (若狭守)
古刀 室町時代末期(永禄十三年頃/1569~)尾張
刃長 65.1cm 反り 2.0cm 元幅 31.7mm 先幅 21.8mm 元重 6.7mm
特別保存刀剣鑑定書
剣形:鎬造り、庵棟。身幅広く重ね充分に反り高く中鋒のびた堂々たる姿。(
刀身拡大写真
)
鍛肌:板目鍛肌たち、地沸つき、太い板目の地景はいる強靭な鍛肌。
刃紋:腰刃に大箱刃を焼いて、湾れに小互の目、広狭変化ある矢筈ごころの刃・尖り刃を焼き、処々跳び焼きを交えて、表裏揃いごころとなる。刃縁には沸厚くついて砂流ししきりとかかり、刃中は匂満ちて明るく冴える。
帽子:乱れ込んで強く掃きかける。
茎:生ぶ。目釘孔一個。浅い勝手下がりの鑢目、棟方平で此所にも浅い勝手下がりの鑢目がある。佩表の目釘孔下方、鎬筋上には大振りの鏨運びで『氏房』の二字銘がある。
『若狭守氏房』は天文三年(1534)、関七流中の善定家である清左衛門兼房の三男として岐阜に生まれた。姓は河村、名を京三郎と称し、初銘を「兼房」という。弘治二年(1556)、長兄の岩見守国房より善定家の惣領を譲られて嫡子となり名を清左衛門と改めて関に移住している。
永禄十三年(1570)四月十九日、三十七歳の時に清左衛門少尉に任ぜられ『氏房』と改め、三日後の二十二日には若狭守を受領している(注1)。
尾張国清洲の城主、織田信長に仕えて抱鍛冶となり、天正五年(1577)信長に従い近江国安土城下で駐鎚。同十年(1582)六月二十一日、『本能寺の変』で信長自害の後は岐阜に帰郷して織田信孝の扶持を受け、同十二年(1584)尾張国清洲城下で蟹江城主、佐久間正勝の扶持を受けて鍛刀に励んだ。
相模守政常、伯耆守信高と並んで尾張三名工の一角を占める優工である。同十八年(1590)五月十一日没、享年五十七。名古屋大須門前町の東蓮寺(現在は昭和区八事に移転)に睡る、法名『前若州大守良屋宗善居士』。
熱田神宮には「氏房」に改銘する前の代表作で愛知県の指定文化財、太刀 銘 「河村京三郎 濃州関住兼房作」、刀身に切付銘で「永禄十一年二月吉日 奉寄進熱田太神宮 兼房作」がある。また、織田信長の安土城築城後に駐鎚した脇指 銘 「若狭守氏房 江州安土住人」がある。
本作は生ぶの姿を遺して茎の錆味良好。鑢目、銘字の鏨も鮮明。生気凛々たる戦国武将等(注2)が本作に託した想いを今に伝えている。
金着せ二重はばき、白鞘入
(注1)些末な推測であろうが、氏房の『若狭守』任官は永禄十三年四月二十二日、翌日の二十三日には元亀に改元されている。氏房は元亀改元の前日に『若狭守』任官されて、『金ケ崎の戦い』で信長が若狭を手中に於いたことから、氏房は信長の寵愛を受け格別な斡旋で正親町天皇より『若狭守』に任ぜられたことを窺い知ることが出来よう。
(注2)永禄十一年九月二十六日、天下布武を目指す織田信長は正親町天皇を奉じて上洛。永禄十三年四月、信長は官軍として朝倉氏の討伐に約三万を挙兵して出陣した。若狭の守護武田氏の討伐を装って京を挙兵したものの、若狭を通り越して朝倉氏領土の越前へと進軍した。
同年四月二十五・二十六の二日間で金ケ崎城を陥落させ朝倉景恒を降伏・開場させた。敦賀は信長の手中となり、若狭は信長家臣の丹羽長秀に与えられた。さらに朝倉氏の本拠・一乗谷に向かって兵を進めたところで、義弟・浅井長政の裏切りを知らされて朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちにあうことを悟る。信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、明智光秀らに殿を命じて金ヶ崎城を守らせ、自身はわずか数十騎の兵を伴って若狭方面から京を目指して撤退し、五月六日には、秀吉や光秀らの隊も京に生還。織田軍は九日に、本拠地の岐阜城へ帰還するため京を出立した。
信長は金ヶ崎の窮地を脱した後、浅井・朝倉両軍との軍事的・政治的決戦を経て両家を滅亡させ、元亀元年(1570)の『姉川の合戦』、『石山本願寺の一向一揆』や元亀二年(1571)『比叡山焼き討ち』など戦歴を経て天下統一した。
参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和59年3月31日
鈴木卓夫、杉浦良幸 『室町期美濃刀工の研究』 里文出版、平成十八年五月十一日
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