O34358(W3222)

寸延短刀 銘 相模守藤原政常

桃山時代(天正二十年~/1592~) 尾張
刃長32.8cm 無反り 元幅29.8mm 元重5.8mm
 特別保存刀剣鑑定書

参考品

 

初代政常は名を『納戸佐助』、後に『太郎助』と改めた。美濃国鍛冶八代目奈良太郎兼常の末流、八代目『納戸助右衛門兼常』の次男として天文五年(1534)に美濃国納土(のど)、現在の関市千年町あたりに生まれた(注1)
 永禄十年(1567)、33歳で春日郡小牧村に来住して独立、『兼常』と銘して天正十二年(1584)の『小牧長久手の戦い』で徳川家康の配下で槍百筋を製作して家康公より銀子を賜る。
 天正二十年(1592)五月十一日に『相模守』を受領し(注2)、当時の尾張小牧領主、池田輝政より『政』の字を与えられ兼常を政常に改銘した(注3)
 慶長五年(1600)十一月十七日、政常66歳の時に、徳川家康の四男薩摩守松平忠吉が清洲城主になると同時に、福島正則の召に応じて小牧より清洲城下に移住、慶長八年(1603)より忠吉公の抱え鍛冶として仕えている。慶長十二年(1607)三月、藩主松平忠吉の病没を悼んで一旦隠居した。
 同年四月二十六日に家康九男、徳川義直が清洲城主となり、政常は百石余の高禄を得て実子の二代とともに義直公に仕えた。同十四年(1609)実子の二代政常が早世したため美濃国より大道の子を養子(三代美濃守政常)として迎え、自らは『相模守藤原政常入道』として復帰している。
 同十五年二月に名古屋城開府に伴って、名古屋城下富田町(現在の名古屋市中区桜通本町角)に移り鍛刀に従事。元和五年(1619)二月二十八日没、享年八十五。作刀年紀は天正二十年、慶長元年、二、三、六、九、十一年の裏銘がある。
 初代『相模守藤原政常』の作品中、刀は稀有で、槍・薙刀・短刀は新刀中の雄として周知され、とりわけ短刀は無双の名人として新刀最上位と賞揚されている。
 本作は身幅広く寸が延び、ふくら張る総身に気迫が漲り雄渾な体躯を有して、輝かしい新刀の時代を見据えた転換期の作品。地鉄は杢目肌がよく練れて潤い、地錵が厚くついて美麗な地景が表出する。沸の強い端正な中直刃の刃文は浅く湾れて刃縁明瞭に、ここには二重刃とほつれる刃を交え、鋩子は端正な小丸に返る。格別の意図を持って施された素剣に梵字、護摩箸の彫物を茎に掻き流す。
 茎は角棟で鑢目は勝手下がり、栗尻に結ぶ茎の錆色良好に、端正な鏨運びで、『相模守藤原政常』の長銘がある。『常』の字の最終画縦棒を長く引くのは同工の特徴である。

(注1)政常の菩提寺・西光院の過去帳より
(注2)天正十九年(1591)関白豊臣秀次が清洲城主に就任し、秀次公の斡旋により、天正二十年(1592)五月十一日、信高が『伯耆守』、氏房は『飛騨守』、政常は『相模守』を受領している。
(注3)一説には秀吉の子飼いであった福島正則に召されて『政』字を賜ったと云う説をとっている。福島正則の清洲入城は文禄四年(1595)であり、改銘はそれより五年前に行われていることから福島正則より銘を拝領した古書説は誤りであると思われる。初代『政常』 没後も代々尾張徳川家のもとで鍛刀。1875年(明治8年)没の10代 『政常』まで続いた。

参考文献:
『尾張刀工譜』 名古屋市教育委員会、昭和五十九年三月三十一日