剣形:鎬造太刀、庵棟低く、元身幅広く踏ん張りがついて腰反り深く先反りを加える。元先の幅差がやや開き中鋒延びる古雅な太刀。(
刀身詳細写真) 鍛肌:板目に杢目を交えて総体に肌立ち、平地は暗帯部を挟んで地斑調の棒映りが立つ。 刃紋:小互の目で低く焼き出し、腰開きの丁子に互の目、複式互の目を交え、刃中に匂いを厚く敷いて匂口明るく、丁子の足が刃先に放射し、ここに砂流し頻りとかかり葉浮かぶ。刃色瑞々しく明るい。
帽子:横手下で鎮まり互の目乱れて先端が小丸に返る。
茎 : 生ぶ茎に反りが深くつき、刃方は雉子股となる。目釘孔二個、鑢目は浅い勝手下がり。茎尻は刃上がり栗尻。棟方平。茎の上方鎬地には小振りな鏨の太刀銘『備州長船宀□』、裏には『應永廿八年八月日』の年紀がある。(『家』字のウ冠「宀」が判別出来ることから『家助』作刀であることが判る)
六百有余年の歴史を今に伝える応永二十八年(1421)の年紀を有する長船家助の太刀。
『家助』は備前長船(現、岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工。初代は畠田守家の子で文永(1264~75)頃の刀工と伝えているが、在銘には応永を遡るものは慧眼しない。そのため、応永頃の家助を事実上、中興の祖とし以降は文明(1469~86)頃の四代まで続いている。後代の作品は小脇指・寸延短刀が多く、応永頃の家助は太刀のほかに打刀の作品もある。応永頃は太刀と打刀が同居しており、やがては打刀が隆盛する時代を迎える。春日大社には太刀 銘 備州長船住家助 永享八年二月日(1436)の重要文化財がある。
表題の太刀は、刃長弐尺参寸壱分におよぶ生ぶの原姿を保持して腰元に踏ん張りがつき、腰反りが高い威風堂々とした太刀姿。茎の雉子股形の形状は、柄に俵鋲を配した衛府太刀拵に附されたのであろう。鍛えは板目に杢を交え、総じて肌立ちごころとなり地斑調の映りがたつ。刃文は大模様・腰開きの互の目に小湾れ、小丁字などを交じり、足・葉よく入り匂い出来。帽子大きく乱れ込んで先小丸となり華やか。特別な需による同作中の白眉である。
金着二重はばき、
白鞘(本間薫山鞘書)
室町時代は刀剣の形状に大きな変化がおこり、初期には太刀が多く、やがて中期になると打刀の製作が盛んになる。應永備前の名はこの期の備前刀が應永年紀を切るところから生まれた呼称であり、作風としては鎌倉時代の一文字や長船一門の全盛時代を懐古する復古的な作域が多い。太刀の姿は鎌倉時代のそれが腰反りであるのに対し、室町時代の應永備前は概して反りが深く、かつ先反りが加わる特徴がある。刃文は前代のものが小湾れや互の目を主調としいるのに対し、應永期の長船系は鎌倉時代のものに近似した丁子乱れに互の目を交えた刃文を焼く。盛光、康光、師光、経家や家助の『應永備前五工』の諸工らが活躍している。
南北朝合一による幕府政権の安定は鎌倉時代の武家政治を理想とする反面、北山文化に象徴される公家文化への憧れから刀剣は復古調となり、本太刀のごとく起伏に富んだ華やかな作風へと変化して互の目に丁子、さやには腰の開いた互の目を見るようになる。参考文献:
石井昌国・本間薫山『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年長船町史編纂委員会『長船町史』大塚工藝社、平成十年