A65622(T5944)

短刀 銘 三州住国佐 嘉永七年寅五月日

新々刀 江戸時代末期(嘉永七年/1854) 三河
刃長29.8cm 反り 0.1cm 元幅 28.5mm 元重8.4mm

保存刀剣鑑定書

 

剣形:平造り庵棟短刀。刃長九寸八分と寸が延びてほぼ無反り。身幅広く頗る厚い重ねに先の重ねも厚くつく重厚な手待ちにふくら枯れごころ。(刀身拡大写真
彫物:表は二筋樋の彫物、裏には棒樋の彫物がある。
鍛肌:小板目肌よく詰んで地沸厚くつき地景はいる美麗な鍛肌。
刃紋:匂い出来の焼刃は極短く湾で焼き出して足長丁子、重花丁子に腰開きの互の目を交える。刃中匂い充満して丁子の足入り、腰元僅かに砂流しかかる。
帽子:丁子乱れ鎮まり、ふくらに沿って直ぐとなり中丸。返りやや深く棟に焼き下げる。
茎:生ぶ、瓢箪形目釘孔一個。刃上がり栗尻張る。大筋違に化粧鑢、棟肉平で此所にも大筋違に化粧鑢がある。表目釘穴下には『三州住国佐』の五字銘、裏には『嘉永七年寅五月日』の制作年紀が刻されている。

 『国佐(くにすけ)』は三河の住人。『三州府内住国佐』、『三州住国佐』などと鏨を運ぶ。固山宗次の門人で備前伝を専らとした嘉永頃の刀工で嘉永五年、七年から文久三年の年紀作がある。
 この短刀は威風堂々とした打刀の添指。九寸八分と寸延びて頗る厚い重ねは手持ち重厚に、ふくら枯れごころの射突に適した造り込み。精良なる地鉄に足長丁子を焼き、師の固山宗次より習得した備前伝を具現した同工の秀作。
 徳川家康生誕の地である三河の地は東海道の要衝でもあり、歴代徳川譜代大名が入封したことから江戸時代を通じて尚武の気風を尊び優秀な刀工達を招聘してきた。嘉永七年一月、ペリーが再来日し、三月に日米和親条約を締結。この時期には攘夷の機運高まり、武士達の尚武の好尚に乗じて長寸の打刀や強靭な体躯の短刀の需が増した。
国佐(くにすけ)』は、岡崎の『吉達』、『吉正』や刈谷の『寛重』等とともに三河の代表工である。

銀着せ時代はばき、白鞘入
参考資料:
本間薫山、石井昌国『日本刀銘鑑』雄山閣、昭和五十年